スクランブル交差点

ストーリー

渋谷駅のハチ公前広場は、巨大な水槽の底に似ている。
色とりどりの熱帯魚たちが、行き場を失って回遊しているような、あてどない熱気。僕はスクランブル交差点の信号が変わるのを待ちながら、耳に突っ込んだイヤホンから流れるジャズの調べに身を委ねていた。ビルボードから放たれる原色の光が、湿り気を帯びたアスファルトに反射して、夜の街をサイケデリックな万華鏡に変えていく。
二十三歳の僕、タクミがこの街で手に入れたのは、小さなデザイン事務所の見習いという肩書きと、六畳一間のアパート、それに、誰にも言えない孤独だけだった。
「ねえ、知ってる? スクランブル交差点の真ん中で立ち止まると、死んだはずの誰かに会えるんだって」
不意に、横にいた女が声をかけてきた。
イヤホンを外すと、渋谷の騒音が暴力的なまでの音圧で僕を殴りつけた。女は僕より二つか三つ、年上に見えた。カシミアのコートに、少し短すぎるスカート。夜の街には似つかわしくない、清潔な石鹸の匂いがした。
「そんな都市伝説、聞いたことないですよ」
僕は努めて冷静に答えた。
「でも、試してみる価値はあると思わない? この、何千という人生が交差する瞬間なら、何が起きても不思議じゃないじゃない」
青信号が灯る。
巨大な人の群れが一斉に動き出した。それは、意志を持った巨大な生き物のようだった。四方八方から押し寄せる濁流の中で、僕と彼女だけが取り残されたようにゆっくりと歩き出す。
交差点の中央。そこは、世界で最も孤独な場所だと僕は思う。
周囲には何百人もの人間がいるのに、誰一人として僕の目を見ない。みんな、自分の行先と、スマートフォンの画面の中にある小さな世界だけを見ている。この場所で僕が消えても、明日の朝には誰も覚えていないだろう。
「あ、いた」
彼女が足を止めた。人の流れが、彼女を避けるようにして左右に割れていく。
彼女が見つめる先には、誰もいなかった。ただの空っぽの空間。だが、彼女の瞳には、僕には見えない何かが映っているようだった。
「誰かいたんですか?」
「初恋の人。五年前、バイク事故で死んじゃったんだけど。ほら、あそこに立って、私に笑いかけてる」
彼女は透明な虚空を指差した。
僕は黙ってその方向を見た。そこには、ブランドショップの袋をいくつも抱えた女子大生や、疲れ果てた表情のサラリーマンが通り過ぎていくだけだ。
「……見えませんよ」
「それでいいの。私だけの幽霊だから。でもね、君の隣にもいるよ。さっきからずっと、君の袖を引っ張ってる小さな女の子が」
僕は思わず自分の左袖を見た。
そこには、僕が高校生の頃に亡くした妹が、よくやっていた癖のように、わずかな皺が寄っていた。ただの気のせいだ。風のいたずらか、僕の思い込み。けれど、僕の心臓は、ジャズのリズムを無視して激しく打ち鳴らされた。
「この交差点はね、タクミくん」
彼女は僕の名前を知るはずもないのに、当然のようにそう呼んだ。
「未練の集積回路なんだよ。みんなが誰かを想い、誰かを忘れようとしてここを通る。その強い念が重なり合って、一瞬だけ、時間の歪みが生まれるの」
赤信号のカウントダウンが始まる。
人々は走って渡り終えようとし、交差点の密度が急激に増していく。
彼女は僕の手をそっと握った。その手は、驚くほど冷たかった。
「私、あっち側に行くね。彼が呼んでるから」
「あっち側って、どこですか?」
彼女は答えず、ただ優しく微笑んだ。
その笑顔は、かつて僕が描こうとして描ききれなかった、最高に純粋な色彩をしていた。
信号が赤に変わる直前、彼女は人の波に飲まれるようにして、センター街の奥へと消えていった。僕は立ち尽くしたまま、彼女の背中を探したけれど、そこにはもう、無機質な都会の群衆がいるだけだった。
翌日、僕はいつものように事務所へ向かった。
締め切りに追われ、クライアントの無理難題に頭を下げ、冷めたコーヒーを流し込む。昨夜の出来事は、やはり夢だったのかもしれない。石鹸の匂いも、冷たい手の感触も、都会が見せた一瞬の幻影。
けれど、仕事帰りに再び同じ交差点を通りかかったとき、僕は自分の足元を見て、息が止まった。
僕の左袖のボタンが、一つだけ取れかかっていた。
それは、昨夜彼女が「女の子が袖を引っ張っている」と言った場所だった。
僕は再び、スクランブル交差点の真ん中で足を止めた。
「危ねえな!」
「どけよ!」
怒号が飛ぶ。肩をぶつけられる。
それでも僕は、目を閉じて、その場所に漂う「念」を感じようとした。
聞こえてきたのは、喧騒ではなく、祈りのようなささやきだった。
「寂しい」「会いたい」「幸せになりたい」「逃げ出したい」
無数の声が、交差点のアスファルトの下でうごめいている。
都会という場所は、残酷なまでに効率的だ。
けれど、その効率の隙間に、僕たちはこっそりと自分の居場所を隠している。誰にも見せない涙や、捨てきれない思い出を、この交差点に置いていく。
僕はゆっくりと目を開けた。
正面から、一人の幼い女の子が、母親の手を引いて歩いてくるのが見えた。
その子が僕とすれ違う瞬間、ふと立ち止まり、僕を見上げて言った。
「お兄ちゃん、ボタン、取れそうだよ」
僕は微笑んで、その子の頭を撫でようとした。けれど、彼女たちはあっという間に人の波にさらわれていった。
スクランブル交差点。
そこは、ただの道じゃない。
僕たちが、自分自身を取り戻すための、聖域なのかもしれない。
僕はイヤホンを耳に戻し、今度はアップテンポなフュージョンを選んだ。
歩き出す僕の足取りは、昨日よりも少しだけ軽かった。
左袖の取れかかったボタンを、指先で優しく弾きながら。
都会の夜は、まだ始まったばかりだ。
ネオンの海を泳ぐ熱帯魚の一匹として、僕は僕だけの航路を探し続ける。
次に信号が変わるとき、僕を待っているのは、幻影ではなく、確かな未来だと信じて。
いつかまた、あの石鹸の匂いがする彼女に会えるだろうか。
そのときは、僕も彼女に教えてあげようと思う。
「あっち側」に行かなくても、この交差点の真ん中で、僕たちはちゃんと生きていけるんだということを。
空を見上げると、ビルの隙間から、わずかだけ星が見えた。
渋谷の空に星なんて、誰も信じないだろう。
けれど、今の僕にははっきりと見えていた。
その光は、何億年も前の過去から届いた、未来へのメッセージのように、スクランブル交差点を静かに照らしていた。
僕は一歩、強く踏み出した。
次の青信号が、僕の行く道を鮮やかに塗り替えていく。

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