実は、私はかつて韓国語を熱心に勉強していた時期がある。今から本腰を入れて学び直せば、ある程度まではすぐに勘を取り戻せるだろう。とはいえ、当時の自分がどれほど喋れたかと言えば、「日常会話には事欠かないレベルでした」と胸を張りたいところだが、正直に告白すれば大したことはない。そもそも私は、国家としての韓国にはあまり良い印象を持っていない。昨今の政治的な諸問題を考えれば、プライベートではできれば避けたいと感じてしまう国である。
では、なぜそんな私がわざわざ隣国の言葉を熱心に勉強したのか。それには、ある明確な理由があった。
以前にも何度か話したことがあるが、私が中国に滞在していた頃、家庭教師として大変お世話になったのが「林(リン)君」という青年だった。彼は中国の少数民族である「朝鮮族」で、日本語が非常に堪能だった。意外に思われるかもしれないが、中国の朝鮮族の人々は総じて親日的な傾向が強い。彼らの母語である韓国・朝鮮語は日本語と文法構造が酷似しているため、日本語の習得が早く、学校で日本語を専攻する学生も少なくないのだ。
特に中国の東北3省(遼寧省・吉林省・黒竜江省)は、歴史的な背景もあり驚くほど日本語教育が盛んである。中でも黒竜江省の「鶏西(けいせい)市」という街の日本語熱は凄まじい。日系企業が現地で日本語通訳を募集する際、面接で「鶏西市の出身です」と聞いただけで、履歴書もそこそこに「じゃあ、明日から来てくれ!」と即決してしまうほど、その語学レベルと信頼度は抜きん出ていた。まさに「ブランドの鶏西市」である。
私はそんな朝鮮族の林君の実家を、これまでに3回ほど訪問したことがある。遠路はるばる訪ねるたびに、彼の家族はまるで本物の身内のようにつくづく温かく迎え入れてくれ、本当に楽しいひと時を過ごさせてくれた。彼らの住む吉林省の延辺朝鮮族自治州「延吉(えんきつ)」は、私が暮らしていた北京から遥か遠く離れていたが、中国在住時は年に1度は必ず旅行で訪れるほどお気に入りの場所になっていた。
そんなある年、2度目に延吉を訪れた時のことだ。私には、以前からどうしても行ってみたい場所があった。「防川(ぼうせん)」と呼ばれる、国境の地である。
事前にインターネットで調べて知ったのだが、ここは地理的に極めて興味深い構造をしている。中国の領土がロシアと北朝鮮に左右から挟まれるようにして東へ進むにつれ、文字通り「先細り」の廊下のようになっていき、最終的には行き止まりとなって北朝鮮とロシアの国境が陸続きになるのだ。考えてみれば、中国、ロシア、北朝鮮の3か国は、それぞれ日本との間に領土や歴史といった複雑な問題を抱え、戦争から続く深いしがらみを引きずっている国々である。そうした意味でも、日本人として非常に感慨深く、むしろ一度は自分の目で見ておくべき歴史的空間ではないかと考えていた。表向きは日本を仮想敵国として手を取り合っているようにも見える3か国のパワーバランスが、地政学的に凝縮された場所なのだ。
林君の実家を訪ねたのは、まさに冬の真っ只中だった。当時は北京から、2000年頃に他の航空会社と統合されて今はなき「延辺航空」の飛行機に乗り、延吉朝陽川空港へと降り立った。
――ここからが、私の未体験ゾーンへの突入である。
飛行機を降り、手荷物受取所(カルーセル)で荷物を待っている間、ロビーの光景に目を奪われた。なんと、地元の子供たちがドッグランの犬のごとく全速力で四方八方を走り回っているのだ。所々に置かれたクッション付きのベンチでは、赤ちゃんを器用に背中におんぶしたお母さんが、実家のような安心感で談笑しながらセーターを編んでいる。その隣では、仲睦まじいおじいちゃんとおばあちゃんが、マイお弁当箱を広げてピクニック気分でご飯を食べていた。素晴らしい、あまりにも平穏で美しいローカルな風景だ。どうやらこの街では、冬の空港は飛行機に乗る場所ではなく、寒さをしのぐ庶民の格好の憩いの場(もはや公園)として機能しているらしい。
そんな温かい光景を眺めながら、ターンテーブルを回る荷物を引き取る。そういえば、カルーセルと言えばあの「カルーセル麻紀」さんは今どうされているだろうか。もし彼女が生物学的な女性であったなら、間違いなく私のど真ん中のタイプである。私はああいう、目がキュッと吊り上がった気の強そうな美女にめっぽう弱いのだ。そんなくだらない妄想で現実逃避をしていないと、やっていられない理由があった。
ふと空港の玄関口にある電光掲示板に目をやると、現在の外気温が表示されていた。
【マイナス25度】

……正気か? 冷凍庫の奥深くでもマイナス18度程度だというのに、それより遥かに低い未知の世界が扉の向こうで待ち構えている。もはや空気ではなく凶器が浮遊しているレベルだ。これまでに経験したことのない絶対零度の世界を前に、私は完全に怖気づいていた。一歩でも空港の外に出た瞬間、あまりの寒さにショック死してバタバタと倒れてしまうのではないか。頼むから一歩も外に出たくない。
しかし、ガラス扉の向こうの極寒の寒空の下では、愛すべき林君がマフラーに顔を埋めながら健気に私を待っているのだ。行かねばならぬ、だが絶対に行きたくない。葛藤する頭の中で、林君への感謝と寒さへの恐怖がぐるぐると渦巻いていた。
「っていうか林君、君はどうしてこんな人間が住むような温度じゃない場所に、平気な顔して住んでいるんだい!?」
心の中でそう叫びながら、私は意を決して、コートの襟を最大まで立てて自動ドアへと足を進めたのだった。


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