30年前の写真で定期券更新!?中国の街角で知った「物持ちが良い」という本当の意味

中国での生活

 北京の街が、まだ自転車の鈴の音と、どこか煤けたような空気の匂いに包まれていた頃のお話です。
 金(ジン)さんという方がいました。金さんには可愛らしい娘さんがいて、彼女はよく、私の通う北京師範大学まで遊びに来てくれたものです。金さんの一家は、街の中心からは少し外れた「西三旗」という場所に居を構えていました。そこから大学までは、バスに揺られてたっぷり一時間半はかかります。当時のバス運賃は一元ほど。けれど、金さんたちはもっと賢く、もっと根を張った暮らしをしていました。
「これ、作りに行きましょう」
 ある日、娘の蘭さん(仮にそう呼びましょうか)が、私を誘ってくれました。彼女の手には、家族全員分の写真と、いくらかの人民元が握られていました。北京の中央バスセンターへ行けば、月額三十元ばかり――日本円に直せば四百数十円という、まるでおまじないのような安さで、ひと月乗り放題の定期券が手に入るというのです。


 バスセンターには、蛇のようにうねった長い列ができていました。人々は皆、手持ち無沙汰に、けれど確かな目的を持って順番を待っています。ようやく自分たちの番が近づいたとき、私は蘭さんが持っていたお父さんの、つまり金さんの定期券用の写真を見せてもらい、思わず噴き出してしまいました。
 日本の暮らしに慣れた身からすれば、証明写真というものは、今の自分を写す鏡のようなものです。せいぜい半年前、長くても一年前の自分を切り取ったものを使うのが、ささやかなマナーだと思い込んでいました。パスポートにせよ免許証にせよ、今そこにある顔と、写真の中の顔が一致していなければ、それは証明の役を果たさない。そう、信じていたのです。
 けれど、蘭さんの掌の上で笑っていた金さんは、どう見ても二十代の青年でした。
白黒の印画紙の中で、彼は若々しく、頭髪も驚くほどふさふさとして、未来を一点に見つめるような、はつらつとした瞳をしていました。一方で、私の知る金さんは、どう転んでも七十代の穏やかなおじいさんです。年月という波に洗われ、頭頂部はすっかり滑らかになっていました。
「これ、いつのお写真なの」 「そうね、三十年以上前かしら」
 蘭さんは、さも当たり前のような顔で答えました。
 三十年。その長い歳月の間に、北京の街は変わり、金さんの背中は少し丸まり、髪はどこかへ旅に出てしまった。それでも、この一枚の写真は、彼が「金さん」であることを証明し続けているのです。


 当時の中国において、写真はとても貴重なものでした。町の写真館で背筋を伸ばし、レンズを見つめて撮った一枚は、額に入れて大切に部屋に飾るような、暮らしの宝物だったのです。    当時の人々の暮らしを思えば、定期券を更新するたびに新しい写真を撮るなんて、あまりに贅沢で、現実味のないことだったのかもしれません。
 けれど、それ以上に私は、一枚の写真を三十年も使い続けるという、その静かな執念のようなものに打たれてしまいました。物を大切にするということは、その物と一緒に過ごした時間を慈しむことでもあります。古びた白黒写真の中に宿る若き日の金さんと、隣で小さく欠伸をしている現在(いま)の金さん。その二人は、三十年という目に見えない糸で、しっかりと、幸福に繋がっていました。
 窓の外では、また一台、砂埃を上げたバスが走り去っていきます。 物持ちが良いということは、きっと、とても美しい徳のひとつなのでしょう。私は蘭さんの横顔を眺めながら、そんなことをぼんやりと考えていました。

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