星霜(せいそう)去ること二十有余年、今や追憶の彼方に霞むあの時代を顧みれば、世情は泡沫(うたかた)の夢が潰えた後の混迷の中にあった。人心は定まらず、社会の底辺を流れる空気は、あたかも冬を待つ澱んだ水のように重く沈滞していた。
当時の私は、世に誇るべき才もなく、門閥(もんばつ)の後ろ盾も持たぬ、一介の無頼に近い身の上であった。手元に残された僅かばかりの蓄えを懐に、私は大陸への渡航を決意した。それは単なる向学の志というよりは、むしろ現実という名の牢獄から脱れようとする、一種の切実な遁走(とんそう)であったのかもしれない。
かつて私には家庭という名の寄る辺があった。しかし、失業という不慮の事態は、ささやかな幸福の土台を脆くも崩し去った。妻は貧苦の記憶を骨の髄まで恐れる女であった。彼女の育った環境が、経済の不穏に対して過敏なまでの怯えを植え付けていたのであろう。日を追うごとに言葉の棘(とげ)は互いの心を刺し、平穏であったはずの閨門(けいもん)は、いつしか修羅の場と化した。ついには愛想を尽かした妻が実家へと去り、繋ぎ止めるべき絆も失われた時、私はむしろ、背後を断たれた兵士のような清々しさを覚えたのである。
「己を変えねばならぬ」
その一念が、私を海の向こう、広大なる中国の地へと駆り立てた。それまでも二度ほどかの国を巡ったことはあったが、その風土に潜む未知なる力に、どこか抗いがたい魅力を感じていたのである。
当時の世評にいう中国とは、未だ人民服を纏った群衆が自転車の列を成し、土埃の中に古色蒼然(こしょくそうぜん)とした情緒を残す、いわば謎に包まれた異郷であった。西欧諸国の言語に漂う典雅な響きに比すれば、その語調は多分に諧謔(かいぎゃく)を含んだもののように聞こえ、文明の進捗(しんちょく)から取り残された、いささか野暮な国であると断ずる風潮すらあった。しかし、私はその「得体の知れなさ」にこそ、己の再生を賭ける価値を見出した。他人が知らぬ辺境の理(ことわり)に通じることは、無能を自称する私にとって、唯一の矜持(きょうじ)になり得ると信じたのである。
北京の地を踏み、学問の門を叩いた私を待っていたのは、峻厳(しゅんげん)なる現実であった。語学の素養を測る試験の結果、私は最も位階の低い、いわゆる「一〇一」の教室に配された。私の語学力たるや、ようやく一から九までの数詞を口にできる程度に過ぎず、それとて卓上の勝負事、すなわち麻雀の遊戯を通じて得た浅薄な知識に由来するものであった。
教室を見渡せば、そこには多彩な異国の人影があった。欧州の列強、とりわけドイツから派遣された精鋭たる技師の姿もあり、彼らの眼光には知的な理性が宿っていた。十人ばかりの学友の中には、同胞たる日本人のほか、隣国・韓国から来た若者も混じっていた。
窓の外には、大陸の広大な空が広がっている。言葉も通じぬ、身分も保証されぬこの地で、私の新たな歩みが始まった。和やかさの中に、どこか張り詰めた冷徹な空気を感じながら、私は静かに筆を執った。かつての困窮も、別離の痛みも、この乾いた風の中に溶けてゆくのを願いながら――。


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