冬の光が、灰色の空から北京師範大学の構内へと、重苦しく、しかしどこか親密な気配を湛えて降りてくる。二十一世紀という、私たちの誰もが未だ実感を伴わぬままに待ち望んでいた、あるいは畏れていたあの巨大な時間の節目を二年の後に控えた、一九九八年の冬のことだ。
私が生活の拠点としていたのは、構内に佇む一軒のホテルであった。ホテル、という響きから連想される華やかさとは裏腹に、そこには中国という巨大な国家が抱える、どこか不器用な、それでいて逞しい生活の匂いが充満していた。明治村に移築された帝国ホテルの、あの過ぎ去った時代の重厚な静謐さをどこか彷彿とさせつつも、現実はもっと切実で、剥き出しの肌触りを持っていた。
冬の北京の寒さは、骨の髄まで浸透してくるような、鋭利な刃物に似ている。時折、予告もなく途切れる集合暖房(ヌアンチー)の頼りなさに、私は幾度となく震え上がった。そんな時、唯一の救いは街角で買い求めた熱い肉まんであった。白い湯気の向こう側に、寒さに耐える己の卑小な身体を再確認しながら、私はそれを貪るように食べた。肉まんの熱だけが、その時の私にとって、この広大な大陸と私自身を繋ぎ止める唯一の、確かな熱源であったのだ。
部屋の造りは、後の時代に私たちが知ることになる機能的なビジネスホテルの先駆けのような、しかしより無骨で、逃げ場のない狭隘さを備えていた。ベッドと机、そして申し訳程度の引き出し。一メートル四方の、荷物を置くためだけの台はあるものの、トランクを広げるためには床のわずかな隙間を、まるで精密なパズルを解くかのように利用しなければならなかった。
その狭小な空間の主役は、日本から携えてきたIBM製の「シンクパッド」であった。それは今の時代の軽やかな電子機器とは一線を画す、黒く、重く、沈黙を守る鉄塊のような存在だった。私はそれを自嘲気味に「金庫型パソコン」と呼んでいた。価格は三十万円を超えていたと記憶している。二〇二六年の現在から振り返れば、それは狂気の沙汰とも思える高価な買い物であったが、当時の私にとっては、外の世界と私を繋ぐ、唯一の、そして極めて脆い精神の橋頭堡(きょうとうほ)であった。
内蔵ハードディスクはわずか一ギガバイト。今の基準で見れば、音楽CD二枚分にも満たないその極小の領野に、私は自らの学習の記憶、言葉、そして思考のすべてを詰め込もうとしていた。OSはWindows 98。スペックの貧しさは否めなかったが、そこには、限られた資源の中で世界を再構築しようとする、特有の濃密な喜びが宿っていた。
当時、ノートパソコンを異国の地へ持ち込む留学生は稀であった。私はプリンターまでも現地に持ち込んでいたため、いつしか私の部屋は、周囲の学生たちが印刷を依頼しに集まる、ささやかな「編集室」のような様相を呈し始めた。
しかし、私の真の関心は、その「金庫」の中にあったのではない。その「金庫」を、北京の、ひいては世界の巨大な情報網へと接続することにあった。
インターネット。その響きがまだ、未知の荒野へと踏み出す冒険のような高揚感を伴っていた時代だ。接続方法は、電話回線を用いたダイヤルアップ。モデムが発する、あの「ピー、ヒョロヒョロ」という、電子的な、あるいは原始的な怪物の咆哮にも似た接続音を、私は今、YouTubeという後の時代の産物を通じて聴き直してみる。それは、失われた時間への扉を叩く音であり、当時の私が抱いていた、世界に対する切実な飢えの記憶を呼び覚ます。
師範大学のアパートメントの自室には、幸運にも既に電話線が引かれていた。驚くべきことに、しばらくの間、私はその回線を通じて、何故か無料でネットワークの海を回遊することができたのだ。それは管理の不徹底がもたらした、束の間の、そして甘美な「奇跡」であったのかもしれない。しかし、やがて私は、社会的な秩序の一部として、プロバイダーである「中国電信(China Telecom)」との契約を結ぶに至る。
契約の手続きは、言葉の壁に阻まれた私に代わって、若き家庭教師が担ってくれた。彼の通訳を通じて、私は中国という巨大なシステムの末端に、一本の細い糸で繋がれた。月額料金は日本円にして千円程度であったろうか。基本料金に加え、使用した分だけが請求される従量制。私は、砂漠で水を惜しむ旅人のように、通信時間を削り、節約しながら、その細い回線を見守っていた。
不思議なことに、請求額が基本料金をさらに下回るという不可解な現象も起きたが、それもまた、当時の中国という国家が内包していた、大らかな、あるいは混沌とした魅力の一部であった。
私はあの、寒さに凍えるホテルの一室で、シンクパッドの青白い画面を見つめながら、何を求めていたのだろうか。一ギガバイトの制約の中で、私は言葉を紡ぎ、遠く離れた日本を、そして未知の未来を幻視していた。肉まんの熱と、モデムの異様な音。それらは、私が青春という名の、しかし酷く不器用で孤独な時間を、北京という巨大な都市の中で生きていたことの、消えることのない徴(しるし)なのである。


コメント