窓の外を眺めると、春の柔らかな光が庭の木々を撫でている。解剖学の世界に身を置いていると、時折、人間の営みがひどく不思議なものに見えることがあります。言葉というのもその一つで、私たちは空気を震わせ、特定の筋肉を動かすことで、意味という実体のないものを共有しようとしている。
中国語、とりわけあの「反り舌音」について考えるとき、私はいつも人間の「身体」が持つ頑固さと、柔軟さの対比を思い出します。
日本人は古くから漢字という文化を共有してきましたから、机に向かって文字を追う分には、実に優秀な生徒です。しかし、いざ口を開き、空気を震わせる段になると、途端に「身体」という壁にぶつかる。私もかつて、その壁の前で立ち尽くした一人です。
特に「r」や「ch」「sh」「zh」といった音。これらは「反り舌音(そりじたおん)」と呼ばれますが、まさに日本人の口腔にとっては「鬼門」と言ってもいい。解剖学的に言えば、舌というのは非常に自由度の高い筋肉の塊です。しかし、二十年も三十年も日本語という決まった周波数の中で生活していると、脳が「この動きは必要ない」と判断を下し、回路を閉ざしてしまう。
中国の広大な大地を想像してみてください。北の乾いた風が吹き抜ける北京の街角で聞く「是不是(シィ・ブゥ・シィ)」という音。そこには、舌をグッと持ち上げ、上顎の裏側にアーチを作るような、独特の空間的な広がりがあります。
一方で、反り舌音を省略して「sì bùsì(スゥ・ブゥ・スゥ)」と発音する人々もいる。これを「田舎の言葉」と切り捨ててしまうのは簡単ですが、生物学的に見れば、それは「エネルギーの最小化」という進化の過程に近いのかもしれません。人間、楽な方へ流れるのは自然の摂理ですから。しかし、意識を高く持ち、その筋肉の複雑な舞い(ステップ)を習得しようとする人々は、あえてその険しい道を選び、洗練された音を身につけていく。それは一種の「文化的な筋トレ」のようなものでしょう。
脳で理解せず、筋肉に教え込む
初心者が一人でこの音を習得しようとするのは、地図を持たずに深い森に入るようなものです。しかし、良い導き手(家庭教師)がいれば、案外一昼夜でその「コツ」という名の神経回路が開通することもある。
ここで重要なのは、理屈ではありません。
解剖学の教科書に「舌先を反らせて、硬口蓋の後方に近づける」と書いたところで、それは単なる「記述」に過ぎない。実際に音が鳴っているとき、口腔内で何が起きているのか。それは視覚ではなく、聴覚と触覚の附合です。
反り舌音ではない音、つまり「そうではない状態」を深く知ることで、初めて「反り舌音」という特殊な状態が浮き彫りになる。これは医学における「対照実験」と同じです。正常な組織を知らなければ、病理的な変化は分からない。普段聞き慣れない周波数の音を、まずは耳の奥の鼓膜、そしてその先の脳に、飽和するほど流し込む必要があるのです。
音を聞くということは、脳の中に「音の彫刻」を作るような作業です。何度も何度も叩いて、削って、ようやくその形が定着する。一度定着してしまえば、あとは無意識に筋肉が動くようになります。これを「習慣」と呼び、あるいは「技能」と呼びます。
私の周りにも、数人の中国人がいます。
彼らと話すとき、相手が「スゥ・ブゥ・スゥ」と話すタイプであれば、私はあえて鏡のようにその音を返します。それは相手に対する一種の「身体的な同調(シンクロニー)」です。しかし、普段はあえて反り舌音を使い、言葉の端々にその奥行きを持たせるようにしている。
結局のところ、語学というのは鉛筆を握りしめ、紙を汚し、喉を枯らす、極めて泥臭い作業の集積です。現代人は何でも効率よく、スマートに済ませようとしますが、人間の身体というのはそんなに器用にはできていない。
かつての文豪たちが、万年筆を走らせて原稿用紙の海に溺れたように、私たちもまた、中国語という音の海に深く潜らなければならない。そこには、ただ知識として知っているだけでは決して見ることのできない、美しい風景が広がっています。
雨上がりの土の匂い。風に揺れる柳の葉。
そんな景色を、一つの「音」の中に閉じ込めることができる。
そのためには、理屈を捨てて真似をすること。自分の身体を、一つの精巧な楽器だと思って、毎日調律し続けることです。
もしあなたが、その「鬼門」を越えたいと願うなら、まずは自分の脳が作り上げた「正しい音」の定義を壊すことから始めてみてはいかがでしょうか。その先には、今までとは全く違う世界の見え方が、あなたを待っているはずです。

コメント