そりゃあ、ブレーキは必要

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 結局のところ、ブレーキのついていない自転車というものは、どう取り繕ってみたところで、やはり危ないものに決まっているのである。これは論理の問題というよりは、むしろ私の内面における生存への執着、あるいは「まともな社会生活を営んでいる」という自己認識の根幹に関わる問題であった。当たり前ではないか、と誰かが私の肩を叩けば、私は「その通りだ」と首を縦に振るしかない。しかし、その当たり前の事実に、わざわざ異国の地の、あの独特の乾いた、どこか埃(ほこり)っぽい風に吹かれながら唐突に気づかされるというのは、どうにも胸の奥がざわつくものである。それは、自分が立っている地面が実は薄氷であったと知らされるような、あるいは、履いている靴の底がいつの間にか消え失せていることに気づくような、そんな落ち着かない感覚であった。
 私はそのざわつきを鎮めるべく、知人の林君に頼んで、その奇妙な乗り物を速やかに元の場所へと返してもらうことにしたのである。そもそも、よくよく落ち着いて考えてみれば、当時の私に金がなかったわけではないのだ。いや、もちろん裕福というわけではないのだが、この北京という街において、一万円も出せば、そこそこの、少なくとも前後輪にしかるべき制動装置を備えた新品の自転車を手に入れることなど、造作もないことなのだと後で知った。それならば、わざわざ得体の知れない危険を抱え込み、北京の激しい交通の奔流のなかで不慮の事故に遭うというリスクを冒す必要など、どこにも見当たらないではないか。
 そう思い至ると、林君がわざわざあのような、ブレーキという概念を欠落させた代物を持ってきたことさえ、何やら私という人間を試すため、あるいは私を何らかの予定調和から救い出すために仕組まれた、目に見えない大きな力による遠大な計画の一部であったような気がしてくるから不思議なものだ。物事は、常にそれが起こった瞬間よりも、ずっと後になってからその意味を増殖させてゆく。


 林君は当時二十二歳。北京師範大学の日本語学科で学ぶ、延辺出身の朝鮮族の青年であった。彼の顔に浮かぶ、あのどこか浮世離れした、しかし一点の曇りもない素朴な笑み。そして、世間のこまごまとした理屈や合理性をどこか遠くの地平へ放り出してしまったような気風は、異国情緒という言葉だけでは片付けられない戸惑いを感じていた私にとって、常にひどく新鮮な、それでいてどこか救いのある刺激として映っていたのである。
 当時の北京を埋め尽くしていた、あの地鳴りのような音を立てて流れる自転車の群れには、驚くべきことに、ライトというものがほとんど装着されていなかった。日本のように、夜間に無灯火で走っていて警察官に呼び止められる、あるいは周囲から白い目で見られるなどという話も、とんと耳にしない。もっとも、それは二〇〇〇年前後の、ある種の混沌がまだ街の隅々に息づいていた頃の話であって、今や北京の夜もライトの点灯が必須になったと風の噂に聞く。時代というものは、我々が寝静まっている間に、静かに、それでいて取り返しのつかない速度で、その皮を剥ぎ取ってゆくものらしい。
 後になって、私は林君がなぜあのような「ブレーキ欠如」の自転車を、さも当然の贈りものであるかのように平然と持ってきたのか、その構造的な理由をぼんやりと理解することになった。要するに、この北京という街には「坂」という概念が不在なのである。あるとすれば、それは大きな通りに架けられた歩道橋の昇降口に、車椅子のために申し訳程度に設けられた人工的な傾斜くらいのもので、地図をどれほど目を凝らして眺めてみても、街全体が巨大な、果てしない平盤の上に構築されていることがわかる。


 この平坦極まりない世界においては、スピードさえ出しすぎなければ、足の裏を地面に擦りつけるか、あるいはペダルを漕ぐ足を止めるだけで、事足りるのである。ブレーキがないことは、彼にとって欠陥ではなく、その土地の平坦さが許容した一つの生活の「かたち」に過ぎなかったのだ。私は、自らの内にある「ブレーキはあって当然」という常識が、実は特定の地形に依存した偏見であったのかもしれないという、奇妙な反省に囚われることとなった。
 私はその後、紆余曲折を経て自分専用の自転車を新調することにした。日々の運動不足を解消し、弛(たる)みかけた精神と体力を養うためという、いささか大層な名目である。私が選んだのは、銀色に鈍く光るマウンテンバイクであった。中国語では「山地自行车(シャンディ・ズィシンチャ)」と呼ぶ。山。そう、山である。どこまで行っても山などひとつも見当たらない、この平坦な北京の地で「山岳用」の自転車を乗り回すというのは、言葉の響きからしても、どうにも滑稽な倒錯を感じさせずにはいられない。私は山のない街で、架空の山を登るかのように、銀色のフレームに跨(またが)った。
 なぜ銀色を選んだのか。それは単なる色彩の嗜好ではなかった。北京滞在中に何かとお世話になった方の、その娘さんが、銀色という色をことのほか好んでいたという話を、何かの折に小耳に挟んでいたからである。異国での暮らしという、頼りない浮き草のような、あるいは霧の中を歩くような日々のなかでは、こうした取るに足らないような小さな縁、あるいは記憶の断片が、妙に心の中心を支えてくれることがある。それは他人の好みを自分の持ち物に反映させることで、自分がその土地に結びついているという証拠を、必死に捏造(ねつぞう)しようとする行為だったのかもしれない。
 思えば、私が中国留学という、人生の軌道から大きく逸脱するような決断を下すにあたっては、金(キム)さんという人物の存在が、決定的に、かつ不可避に重要であった。彼との出会いは、まだ私が学生であった頃、何の目的もなく中国を彷徨(さまよ)っていた旅路にまで遡る。それ以来、私たちは細々と、しかし途切れることなく手紙を交わし、その後の三度におよぶ旅路を共にしてきたのである。ホテルの手配から、入り組んだ観光地の段取り、さらには私のつたない、舌足らずな言葉を補うための流麗な通訳に至るまで、彼の献身的な助けがなければ、私は北京の巨大な交差点で立ち往生し、何ひとつ満足に成し遂げることはできなかったに違いない。
 金さんは朝鮮族の知識人で、北京服飾大学の教授という重厚な肩書きを持っていた。かつての日韓併合時代に日本語教育を受けられたとのことで、その日本語は、現在の日本人が日々の喧騒のなかで失いつつあるような、端正で、どこか懐かしい響きを湛えていた。朝鮮語、中国語、日本語、そしてロシア語。彼は四つの言語という、四つの異なる世界を自在に泳ぎ回り、その専門は化学、さらには「竹塩」の研究者という、何やら深遠な一面も持っていた。
 その広大無辺な博識さと、すべてを包み込むような、底知れない温厚さは、異国で心細さに震えていた私にとって、暗闇のなかに突如として灯された一筋の松明(たいまつ)のようなものであった。金さんがいなければ、あの煩雑極まりない留学手続きも、その後の北京での生活の細々とした営みも、きっと出口のない迷路を、鏡張りの部屋を彷徨うようなものになっていただろう。

 人は、自分一人の足で毅然(きぜん)と立っているつもりでいながら、実は知らぬ間に無数の誰かの手に、あるいは誰かの差し出した記憶の断片に支えられ、辛うじて生かされている。夕暮れ時、紫禁城の甍(いらか)の向こうへと、ゆっくりと、しかし確実に沈んでゆく太陽を眺めながら、北京のあの乾いた風を、肺の奥の奥まで吸い込む。そのとき、私は自分が、林君や金さんといった人々の優しさの重層的な集積の上に、かろうじて存在を許されているという事実を、逃れようのない重い真実として噛みしめるのである。
 ブレーキのない自転車が運んできたささやかな動揺、林君の屈託のない、しかし深い淵(ふち)を感じさせる笑顔、そして金さんが示してくれた静かな、揺るぎない知性。それらすべてが、北京という、始まりも終わりもない巨大な円環のなかで混ざり合い、私の記憶の風景を塗り替えてゆく。風景とは、ただそこに客観的に存在する景色ではなく、誰かとの関係性のなかで、あるいは自分自身の記憶の影として立ち上がってくる、実体のないものなのかもしれない。
 私は銀色のマウンテンバイクのペダルを漕ぎ出す。ブレーキは、今度はしっかりと付いている。しかし、私の人生という坂道には、一体どのような制動装置が必要なのだろうか。平坦な道はどこまでも続き、風はどこまでも乾ききっていた。その乾きこそが、私の異国における唯一の確かな手触りであった。

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