わが家の猫は、どうも身の処し方がきっぱりとしている。
朝、障子の桟(さん)を薄桃色の光がなぞる頃、奴はもう起きている。こちらが布団の中でぐずぐずと、昨日の疲れがどうの、今日の手配がどうのと、とりとめもない算段を巡らせている傍らで、猫はただ、坐っている。前肢を几帳面に揃え、凛とした背を伸ばして、窓の外の気配を窺っている。その姿には、おべっかもなければ、世辞もない。ただ「朝が来たから、私はここに居る」という、動かしがたい事実があるばかりだ。
の陽だまりを、自分の領分と決めるのも早い。少しずつ動いてゆく光の斑(ふ)を追いかけ、体をまるめ、時には無防備に放り出す。毛並みに溜まったお日様の匂いを、私はこっそり鼻を寄せて嗅いでみる。すると猫は、五月蠅(うるさ)そうに片目だけをあけ、「野暮な真似を」と言いたげに、尾の先をぴしりと畳に叩きつける。その一振りに、媚びない者の矜持(きょうじ)が透けて見えて、私は思わず居住まいを正したくなる。
夕刻、台所から鰹節を削る音が響けば、奴の時間はまた新しく動き出す。足音も立てず、さりとて卑屈にならず、板の間にすっくと立つ。
「さあ、お仕事はおしまい。私の時間ですよ」
そう急かされているようで、こちらも自然と手が動く。食う、寝る、そしてただ「在る」。そんな当たり前のことを、この小さな生き物は、一点の曇りもなくやり遂げている。
夜、闇が家の隅々に溜まる頃、猫は再び静かな哲学者に戻る。
明日を憂うでもなく、昨日を悔いるでもない。ただ、冷えゆく空気の中に身を置いて、じっと闇の奥を見つめている。その無言の背中に、私はどれほど救われていることか。
天手古舞(てんてこまい)の人間を尻目に、猫は今日も、ただ猫であることを全うして一日を終える。その潔い生きざまを、せめて爪の垢ほどでも煎じて飲みたいものだと、私は独り、苦笑いするばかりである。

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