呻吟(しんぎん)

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 南千住駅の改札を出ると、鼻をくすぐるのは排気ガスの匂いと、どこか湿った、古い段ボールが乾燥したような特有の埃っぽさだった。
 四十二歳、本厄。恒造(こうぞう)の人生は、今まさに「凪(なぎ)」というよりは「澱(よど)」の中にあった。
 大手建材メーカーの中間管理職。部長の佐藤は、事あるごとに「エビデンスは?」と「自分事化(じぶんごとか)できてる?」を繰り返す男だった。恒造は、そのたびに「はい、承知いたしました」と口では言いながら、心の裏側では、佐藤部長の鼻の穴の形が左右で微妙に違うことばかりを観察していた。喧嘩をする勇気はない。ただ、心理的な摩擦係数は日増しに高まり、恒造の精神を薄皮一枚ずつ削り取っていくような日々だった。
 家に帰れば、三十五年の住宅ローンが、まるで目に見えない巨大な岩のようにリビングの真ん中に鎮座している。
「またこんな高い柔軟剤買って」
「いいじゃない、これくらい。あなたはいつも細かいのよ」
 妻の美智子との会話は、ここ数年、節約か、ゴミの分別か、あるいはどちらが先に寝室の電気を消すかという、不毛な小競り合いに終始していた。
 そんな恒造が、なぜか導かれるように山谷のドヤ街へと足を向けたのは、金曜日の残業帰り、常磐線の窓から見えた、異様に低い位置に浮かぶ月がきっかけだった。

 
 泪橋の交差点を渡ると、空気の密度が変わる。
そこには、恒造が住む世田谷の整然とした住宅街にはない、剥き出しの「生活」があった。
 路上に置かれた折り畳み椅子に座り、ワンカップの焼酎をちびちびと煽っている老人たちがいた。恒造は、場違いなスーツ姿でその間を通り抜けようとしたが、ふと足が止まった。
 コンビニの軒先で、一人の男がじっと空を見上げていた。
「兄ちゃん、珍しいね。こんな時間にネクタイ締めて」
 声をかけてきたのは、シワの刻まれた顔に、意外なほど澄んだ瞳をした老人だった。源さん、と周囲から呼ばれているその男は、手元に飲みかけの『大関』ではなく、安価な甲類焼酎のワンカップを握っていた。
「……仕事の帰りで。ここは、活気があるというか、不思議な場所ですね」
 恒造が精一杯の社交辞令を口にすると、源さんはガハハと笑った。
「活気なんてねえよ。あるのは『残りカス』だけだ。でもよ、カスはカスなりに、燃え尽きるまでが長いんだわ」
 恒造は誘われるまま、道端の縁石に腰を下ろした。
 源さんは、かつて高度経済成長期にトンネル工事で全国を回っていたという。今の恒造がローンで買ったマンションの基礎も、源さんのような誰かが打ったのかもしれない。
「あんた、悩みがある顔だ。ローンの支払いか、上司の顔色か」
「……両方です」
 恒造は、なぜか源さんには素直に話せた。部長の鼻の穴の話や、妻との柔軟剤を巡る不毛な争いについても。
 源さんは「贅沢な悩みだ」と笑い飛ばすかと思いきや、ただ静かにワンカップを煽り、
「それは、重いな。俺らには背負えねえ重さだ。俺らは身軽だが、それはどこにも繋がってねえってことでもある」
 その時、恒造の胸の内に、小さな、しかし確かな優越感が芽生えた。
(ああ、そうだ。俺には帰る家がある。喧嘩する相手ではあっても妻がいる。エビデンスを求めるクソな部長であっても、給料を運んでくる組織に属している。俺は、この人たちよりは、まだ『あちら側』に踏みとどまっているんだ)
 それは、暗い安心感だった。

 
 その優越感に浸っていた恒造の視界を、奇妙なものが横切った。
「ブーン」という、低い蜂のような羽音。
 街灯の少ない山谷の夜空を、四つのプロペラを回しながら、小さな光の点が移動していく。「あれ、ドローン(無人機)ですか?」
 恒造が指差すと、源さんは当たり前のように頷いた。
「ああ。最近、若いやつが飛ばしてんだ。この街の『上』を撮るんだとよ。下から見たらただのゴミ溜めでも、上から見たら幾何学模様に見えるらしいぜ」
 無人機は、音もなく恒造たちの頭上を通過していった。
 それは、感情を持たない冷徹な視点だった。
 地上で、ローンに喘ぐサラリーマンが、住所不定の老人に密かな優越感を抱いている。その滑稽な構図を、無機質なレンズが収めている。
 恒造は、ふと思った。
 もし、あの無人機の高度から自分を見下ろしたら、自分と源さんにどれほどの違いがあるだろうか。
 世田谷のマンションの一室にいる恒造も、山谷の路上に座る源さんも、地球という大きな地面に張り付いた、ちっぽけな点に過ぎないのではないか。
 「俺はましだ」という思いは、強烈な「気休め」に過ぎなかった。
部長に頭を下げて得た金で、銀行に利子を払い、消費されるだけの毎日。源さんは、社会のシステムから「降りた」人間だが、恒造はシステムの中で「回され続けている」だけの部品だ。
どちらがより自由で、どちらがより人間的なのか。

 翌週、恒造は会社で佐藤部長にいつものように理不尽な詰め寄られ方をした。
「君のキャリアプランの、いわゆる『出口戦略』が見えないんだよね」
 恒造は一瞬、山谷のワンカップの空き瓶を思い出した。
「出口なら、泪橋にありました」
「えっ?」
「いえ、何でもありません」

 その日の夜、恒造は妻の美智子に、珍しく自分から話しかけた。
「なあ、あのさ。今度の休み、二人で散歩に行かないか。南千住の方に」
「あんな治安の悪いところ、何しに行くのよ」
 美智子はテレビを見ながら、そっけなく答えた。
「いや、確認しに行きたいんだ。俺たちが、どこに立ってるのかを」
 恒造は、鞄の中に忍ばせていた山谷のコンビニで買ったワンカップを取り出した。家で飲むにはあまりに風情のないその容器を眺めながら、彼は思う。
人は、誰かと比較して「ましだ」と思うことでしか、自分の輪郭を保てないほど弱い生き物なのだろうか。
 無人機は、今夜もどこかの空を飛んでいるだろう。
 特定の誰かに肩入れすることもなく、ただ淡々と、蠢く命を記録していく。
 恒造は、まだ自分の人生の「意義」なんて大層なものは見つけられていない。
 ただ、明日の朝、部長に嫌味を言われても、ローンがまだ三十年残っていても、あのワンカップの焼酎のように、安っぽくても喉を焼くような「生」の感触だけは、手放してはいけない気がしていた。
 厄年の夜は、まだ長い。
 恒造は、キッチンで一人、ワンカップの蓋をパキリと開けた。
 それは、彼なりの、小さな宣戦布告の音だった。

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