北京タクシーの言葉

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 日本の帝都に「東京弁」という固有の響きがあるように、大陸の心臓部である北京にもまた、「北京弁」という名の、一筋縄ではいかない言葉が息づいています。
それは、教科書に整然と並べられた「普通話(プートンファ)」とは、似て非なるもの。例えるなら、端正な楷書体で書かれた公文書の横に、酔っ払いが墨をたっぷり含ませて書き殴った、解読不能な草書体が並んでいるような、そんな奇妙な隔たりがあるのです。
東京の言葉の変化など、まだ可愛いものかもしれません。北京のそれは、変化というよりは「変容」であり、もっと根源的な、生理的なまでの強烈な差異を孕んでいます。窓の外、うっすらと灰色の煙霧に包まれた北京の街並みを眺めながら、私はいつもその「音の壁」について考えてしまうのです。

タクシーという名の異界
 資料を紐解けば、北京弁の特徴はこう記されています。

「主な特徴は、巻き舌音『兒(er)』を多用する発音、語尾の音がはっきりしていないこと、そして独特の語彙にある」

 なるほど、学問的な説明はいつだって明快で、どこか他人事のように響きます。しかし、実際にその音の渦に放り込まれた身からすれば、「はっきりしない」などという生易しい表現では到底足りません。「そもそも、これは本当に人間が発している言葉なのだろうか」という、根源的な疑念にさえ突き動かされる。それが私の、隠しようのない正直な感想なのです。
 特に、その北京弁が「激しさを増す特異点」があります。それは、埃っぽいシートに身を沈める、あのタクシーの車内です。
北京に暮らしていた頃、私は密かに、これは北京弁などではなく「タクシーの運ちゃん語」という独立した言語体系なのではないか、と本気で疑ったことがありました。街を歩く人々は、これほどまでには崩さない。むしろ、こちらが外国人であると察するや、慈悲深い菩薩のような微笑みを浮かべ、それなりに「優しい、角の取れた中国語」で接してくれるものです。
 しかし、ひとたびタクシーのドアを閉めれば、そこは運ちゃんの独壇場です。
 「兒(アール)」がつくことで言葉が柔らかくなる「兒化音(アルカオン)」――それは北京弁の象徴であり、粋の極みとされますが、運ちゃんたちの手にかかれば、その「アール」は必要以上に、かつ執拗に連発されることになります。

 「サンアーリャールトーウル」の彼方
 例えば、若者たちで賑わう「三里屯(サンリートゥン)」という場所へ行こうとします。
 初心な私は、教科書通りに「サン・リー・トゥン」と明瞭に告げてみる。しかし、運ちゃんは無反応か、あるいはバックミラー越しに「あぁん?」と、喉の奥から絞り出すような不機嫌な声を返すだけです。
 ここで私は、ある種の諦念とともに、喉の奥に「アール」を大量に詰め込む作業に入らねばなりません。
 「サンアーリャールトーウル」
 ……文字にすれば、もはや呪文です。舌をこれでもかと巻き上げ、言葉の輪郭をあえて泥沼に沈めるように発音して、ようやく運ちゃんは「フン」と鼻を鳴らし、アクセルを踏み込む。目的地にたどり着くためには、この不明瞭な音の迷宮を共犯者として歩まねばならない。これが、北京タクシーという名の異界のルールなのです。
 
 主導権という名の蜃気楼
  「普通話に比べて音がはっきりしておらず、単語を区切らずにまとめて発音する傾向がある。声調は広東語のような複雑さを欠き、シンプルである」
 「まさに、その通りだ!」と、私は心の中で叫びます。
 外国語の習得とは、本来、相手の言葉を正確に捕捉し、自分の望む結論へと会話を導いていく、ある種の知的なゲームであるはずです。しかし、相手が放つ音が、まるで溶けかかった飴細工のように連なり、輪郭を失っているとしたらどうでしょう。会話の主導権を握るどころか、私はただ、運ちゃんが操る音の濁流に身を任せ、どこへ連れて行かれるかも分からぬまま、揺られていることしかできないのです。
「でも、そんなこと言われたって、聞き取れないものは聞き取れないんだよ!」
車窓を流れる、どこまでも続く灰色のビル群に向かって、私は何度そう毒づいたことでしょうか。
不思議なのは、これほどまでに強引な口調でありながら、東京の「べらんめえ口調」のような、あの突き刺すような鋭い勢いはないということです。むしろ、どこか気だるく、すべてを煙に巻くような、鷹揚な響きがある。


 
 粋(いき)への憧憬
 ある程度、この国の言葉に慣れてくると、悪戯心(いたずらごころ)が芽生えます。自分でもあの「巻き舌」を真似て、北京っ子を気取ってみようとするのです。
 しかし、結果は火を見るより明らかです。私の発する「似非北京弁」は、たいていの場合、冷ややかな沈黙によって撥ね返されます。本物の北京弁が持つ、あの絶妙な「音の崩し方」は、一朝一夕に身につくものではないのでしょう。
それでも。
 あの不明瞭で、どこかふてぶてしく、それでいて雲のように掴みどころのない響きの中に、私は言葉では説明しがたい「粋」を感じてしまうのです。
 それは、古びた胡同(フートン)の路地裏で、夕暮れ時に漂ってくる炒め物の匂いや、遠くで鳴る自転車のベルの音、それらがすべて渾然一体となった、北京という街の体温そのものなのかもしれません。
 タクシーを降り、喧騒の中に放り出されたとき、耳の奥に残っている「アール」の余韻。それは、不自由であるはずのコミュニケーションの中に宿る、奇妙に心地よい「ずれ」の記憶なのです。

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