悪ふざけも大概に…

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 ベトナムの夜は、粘り気のある熱気が肌にまとわりつく。遠くでうねるバイクの排気音と、どこかの屋台から漂うヌクマムの香りが、湿った空気の層に閉じ込められている。
 あの頃、私はその熱気の一部になっていた。
 勤務していた会社では、折に触れて社員たちが集い、食卓を囲むことが習慣になっていた。中でも「誕生日会」という名の集まりは、事務所の人間にとって特別な意味を持っていたように思う。広大な工場にひしめくすべての工員を招くことは物理的に不可能で、どうしても事務所の職員たちと、各部署を統率する幹部たちだけの、閉じた、けれど濃密な祝祭にならざるを得なかった。
 それでも、集まればいつも十五名ほどの顔ぶれが揃う。全員が万障繰り合わせて出席すれば二十三名にものぼる大所帯。レストランの個室という箱の中に、それだけの人間がひしめき合い、笑い、咀嚼する音を響かせるのは、どこか生き物としての体温を確かめ合うような、不思議な高揚感があった。


 白い泥濘の祝祭
料理が片付き、円卓の上にわずかな油の光沢と空のグラスが取り残される頃、部屋の照明が落とされる。暗闇の中で、一際鮮やかな光を放つケーキが運ばれてくる。
ロウソクの炎が揺れる。その光に照らされた若者たちの瞳が、獲物を狙う獣のように、あるいは純粋な悪戯を企む子供のように、爛々と輝き始める。
炎が吹き消された瞬間、それは始まる。恒例の「クリーム塗り付け大会」だ。
「やめて、もう!」
 弾けるような、けれど決して拒絶ではない悲鳴が個室の壁に反響する。標的になるのは、いつだって華やかな、職場の花と目されるような若い女の子たちだった。真っ白なクリームが、彼女たちの瑞々しい肌に、暴力的なまでの白さで塗りたくられていく。
 かつて誰かが「パイ投げ」と呼んだ、あの野蛮で滑稽な喜劇。
 顔中を白い泥濘に覆われ、視界さえ遮られた彼女たちは、それでも、レンズを向けられれば慣れた手つきでピースサインを作ってみせる。クリームの隙間から覗く瞳は、陶酔しているようにも、諦念に沈んでいるようにも見えた。その光景を写真に収めるスマートフォンたちのシャッター音が、連射される銃声のように室内を満たしていく。
 私も、その喧騒の外側に立ち続けることはできなかった。
 場の空気を凍らせることは、その場にいる全員の期待を裏切ることと同義だった。自らクリームに飛び込むような真似はしなかったけれど、ノリのいいスタッフの女の子が、指先にたっぷりと白い塊を掬って近づいてくるのを、私はただ黙って受け入れた。
 彼女は、私の顔をじっと見つめる。
 社長の嗜好を反映してか、事務所の女性たちは皆、一様に若く、愛らしい。
 至近距離で対面し、彼女の細い指先が、私の目鼻の輪郭をなぞるように、丁寧すぎるほどの時間をかけてクリームを伸ばしていく。その瞬間だけ、周囲の喧騒が遠のき、彼女の指の腹の熱だけが私の皮膚に転写される。
「おっさん」としての自意識が、羞恥と微かな愉悦の間で揺れる。その感触の甘やかさに、私はどうしても、この誕生日会という奇妙な慣習を切り捨てることができずにいた。


ケーキの中に隠された「牙」
 しかし、幸福な祝祭の裏側には、常に不吉な影が這い寄っている。
 私たちは、顔を白く染めて笑い合う。けれど、その「ルール」が過熱した先には、深淵が口を開けて待っているのだ。
 高さのある、絢爛なデコレーションケーキ。それを安定させるために、スポンジの中には、割り箸のような太さの木の棒が、縦に何本も突き刺さっていることがある。外側からは決して見えない、ケーキの骨格。
 ロウソクを吹き消した直後、背後から何者かの手が、主役の後頭部を力任せに押し下げる。
 ケーキという柔らかな海に顔を沈めるはずが、もしその「牙」が、眼球を、あるいは頬を貫いたら。
 想像するだけで、奥歯がガチガチと鳴るような恐怖が込み上げる。
 実際に、ネットの片隅には、祝福されるべきその瞬間に、取り返しのつかない事故に遭い、光を失った若者たちの記録が、剥き出しの悲劇として転がっている。
 何という理不尽だろうか。
 愛し、愛され、祝福の言葉を浴びている最中に、運命は最も残酷な形で牙を剥く。
 加害者の無邪気という毒
 SNSの画面をスクロールすれば、そんな「悪ふざけ」の果てに崩壊した祝宴の動画が、いくつも流れてくる。
 顔をケーキに埋められた少女が、顔を上げた瞬間に絶叫し、崩れ落ちる。周囲の空気は瞬時に凍りつき、気まずい沈黙が部屋を支配する。
 そこで加害者たちが浮かべる表情は、一様に空虚だ。
 「そんなに本気にならなくても」
 「冗談なんだから、大人げないよ」
 彼らは、自分の手から溢れ出した悪意を、あどけない「シャレ」という言葉でコーティングしようとする。その言葉の刃は、肉体の傷よりも深く、被害者の心を引き裂く。
 傷つくのは、いつだって立場の弱い女性や子供たちであり、その顔を押し付けるのは、力を持った大人や男たちだ。その構図を見ていると、腸が煮えくり返るような、昏い憤りが胸の底からせり上がってくる。
 日本という国では、こうした凄惨な光景を目にすることは稀かもしれない。
 けれど、私たちのすぐ隣でも、似たような「暴力的な無邪気」は、常に発火の機会を伺っている。


 冠婚葬祭という、人生の節目を彩る美しい席。
 だからこそ、私たちはその場に流れる空気を、誰よりも慎重に、透かし見る必要がある。
 誰かの笑顔が、本物の喜びによるものなのか。それとも、場の空気を壊さないために張り付けられた、精巧な仮面なのか。
 あのベトナムの夜、私の顔をなぞった指先の温もり。
 それが、残酷な牙に変わることのないように。
 私は今も、どこかの個室で揺れているであろうロウソクの火が、ただ穏やかに消されることを、静かに、けれど切実に祈っている。

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