中国留学(うどん屋)

 遠い日の食卓 ― 師大界隈の記憶
 林君という青年と知り合ってからというもの、僕たちは誘い合わせては、幾度か夜の街へ酒を酌み交わしに出かけるようになった。彼もまた、僕と同じくこの広大なキャンパスに身を置く大学生ではあったけれど、その佇まいには二十一歳という年齢相応の、落ち着いた大人の影が差していた。
 大陸の地において、若者が酒を嗜むという習慣について筆を執るのは、どうにも一言では言い尽くせない難しさがある。そこには、言葉にすれば零れ落ちてしまうような、ひどく自由で、どこか大らかな空気が漂っているからだ。
 僕たちの日常は、いつも爽やかな午前中の講義とともに幕を閉じる。建物の外へ出れば、陽光が並木道を白く照らし、乾いた風が頬を撫でていく。そんな折、僕たちの足が自然と向くのは、大学のすぐ傍らにある、一軒のうどん屋であった。そこは行列をなして人を待たせるほどではないにせよ、いつ訪れても活気に満ち、人々の語らいで溢れている不思議に心地よい場所だった。
 廂の向こうに見える学び舎
 大学の周辺を歩けば、そこには師範大学の息吹が至る所に感じられる。付属の学校がいくつか点在しており、おそらくは北京師範大学付属高等学校であろう建物の影も見受けられた。
 中でも僕の興味を引いたのは、「実験小学校」といういささか硬質な響きを持つ名前の学校だった。その名前を耳にするたび、僕はそこに一種の学問的な熱気、あるいは純粋な探究心の残滓のようなものを感じずにはいられない。かつて日本においても、心理学の徒たちが双子の子供たちを募り、発達心理学の瑞々しい対象として見守ったという、あのお伽話のような、けれど真摯な時代があったと聞く。東京大学の付属中学校あたりが、そうした試みの中心であった頃の物語。
 けれど、ここ中国の「実験小学校」が冠する意味は、もっと静かで、それでいて深い。それは新しいカリキュラムを慈しみ育てる試行の場であり、次代を担う教員たちを形作る揺籃(ようらん)でもあるのだ。とりわけ、この師大の付属は「北京第一」の名を冠する、いわばその草分けとも呼ぶべき存在らしかった。
 国立の学び舎と聞けば、つい選り抜かれた才気煥発な子供たちの姿を想像してしまうけれど、その内情はもっと穏やかなものらしい。
 「制度として選抜はしていない。けれど、結果として静かに優秀な層が集まってくるのだよ」
 誰かがそう言っていた。近隣に住まう子供たちが、ごく自然にその門を潜る。そこには制度という枠を超えた、風土のようなものが育っているのかもしれなかった。


 記憶の中の、黄金色のスープ
 さて、話をあのうどん屋へ戻そう。
 あのお店の味は、二十年という長い歳月が流れた今であっても、ふとした拍子に僕の舌の上でありありと蘇ってくる。
 それは、透き通るような、それでいて深い慈しみを感じさせるあっさりとしたスープだった。その中を、白くしなやかな平打ちの麺が泳いでいる。出汁の香りを吸い込めば、おそらくは牛の骨を丁寧に、静かに煮出したのであろう特有の風味が鼻腔をくすぐる。
 「ああ、これはたまらないな」
 独り言のようにそう零してしまう、そんな得難い味わいだった。
 学生を相手にしている店ゆえ、その値段は驚くほどに慎ましい。当時の大学生たちは、僕も林君も、誰もが懐を寂しくさせていたから、日々の食事のほとんどは学食で済ませるのが常だった。だからこそ、あの店で過ごす時間は、僕たちにとってささやかな贅沢であり、甘美な休息でもあった。
 店構えは決して広くはない。例えば、今の街角で見かける丸亀製麺のような整然とした店舗の、せいぜい半分ほどもあれば良い方だっただろうか。厨房で白衣を纏った従業員たちが忙しなく立ち働く、その熱気を含んだ空間を除けば、客席はひどく慎ましく、親密な距離感に満ちていた。
 あの狭い店内で、湯気の向こうに林君の顔を見ながら、僕たちは何を語ったのだろう。今となっては、その会話の細部は夏の午後の陽炎のように霞んでしまっている。けれど、あの一杯の麺が運んできた温もりと、師大の界隈を包んでいたあの澄んだ空気だけは、今も僕の心の中に、一枚の風景画のように大切に残されている。

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