ベトナムの午後の光は、まるで磨り硝子を通したかのように白く、どこか遠い記憶の底を照らしているようでした。
私はその柔らかな光の中を、自転車のペダルを漕ぎながら進んでゆきます。細いタイヤが舗装された路面を撫でる乾いた音だけが、私の耳に心地よく届いていました。週末のホーチミンは、人々の吐息と街の熱気が混じり合い、目に見えない巨大な生き物のようにうごめいています。けれど、自転車に乗っている間だけは、私はその喧騒から切り離された、静かな標本箱の中にいるような心地がするのでした。
私がこうして週末ごとに街を巡るのには、ある一つの、密やかな目的がありました。それは「予防」という名の、自分自身への祈りのような儀式です。
数値と血の迷宮
私の家系図を遡ってみると、そこには糖尿病という名の、静かで執念深い病の影がいくつも刻まれています。父もまた、その影に囚われた一人でした。五十代を迎えた頃から、父の身体の中では、目に見えない精巧な歯車が少しずつ狂い始めていたのでしょう。晩年には二度の脳梗塞を患い、病の痛みは父の心をも頑なな石のように変えてしまいました。
親戚たちは一人、また一人と、その険しい沈黙に耐えかねて去ってゆきました。後に残されたのは、ただ黙々と、壊れた器を繕うようにして父を看病し続けた母だけでした。母の細い肩にかかった重圧を思うとき、私の胸の奥には、冷たい結晶のような悲しみが沈殿してゆきます。
病は、一人の人間を損なうだけではありません。その周囲に広がる穏やかな時間や、積み上げてきた親密な絆までも、音もなく崩し去ってしまうのです。私は、あの静かな崩壊の光景を、二度と繰り返したくないと願っていました。だからこそ、ベトナムというこの地で、私は自分の身体を厳格に律し、健康という名の繊細な標本を守り抜こうと決めたのです。
幸いにも、ベトナムの食卓に並ぶ料理たちは、どれも素材の息吹が感じられるほどに清らかで、過剰な熱量を排していました。この地を流れる穏やかな時間は、生活習慣病という名の濁りから私を遠ざけてくれる、最良の薬箱のように思えたのです。
苦みの標本、干しゴーヤ
私は、健康に良いとされるあらゆる知恵を、古い書物を紐解くような敬意をもって受け入れました。
例えば、市場で見かけるあの無骨な野菜、ゴーヤ。その苦みが血糖を整えると聞けば、私は週末の市場へ赴き、棚にあるすべてのゴーヤを丁寧に買い占めました。持ち帰ったそれらを、外科医が薄い切片を作るような手つきでスライスしてゆきます。そして、ベトナムの強い陽光が降り注ぐバルコニーへ、それらを等間隔に並べるのです。
天日に晒されたゴーヤたちは、時間をかけて自らの水分を空に返し、やがてカラカラに乾いた、奇妙な形の化石のようになります。一キログラムあった瑞々しい果実は、干し上がれば二十分の一ほどの重さにまで凝縮されてしまいます。けれど、その小さな欠片には、命を守るためのエッセンスが凝縮されているような気がしました。
ベトナムでは、その命の薬が、驚くほど安価に手に入ります。一キログラムでわずか五十円ほど。日本という遠い島国で同じだけの「安心」を手に入れようとすれば、二十倍もの金貨が必要になるでしょう。私はその干したゴーヤを丁寧にお茶として淹れ、独特の苦みを深く喉に流し込むたびに、自分の身体がまた一つ、清潔な平穏に近づくのを感じるのです。
記憶の川底、元荒川の濁り
自転車で街を巡っていると、時折、ベトナムの運河のほとりに辿り着くことがあります。当時のホーチミンが、どのような環境の法に守られていたのかは分かりません。けれど、その水面に映る景色は、私の幼少期の記憶に深く沈んでいる「あの川」よりは、ずっと透明に思えました。
元荒川。
なぜ、この異国の地で、その名前が私の唇に上るのでしょうか。
幼い頃、田舎の静寂の中で育った私にとって、埼玉県の越谷市という場所は、目も眩むような「大都会」の象徴でした。十歳の私の瞳には、そこはあらゆる物語が始まる、光に満ちた聖域のように映っていたのです。「こんな美しい都会に生まれたかった」と、切ない憧れを抱いたことを今でも鮮明に覚えています。
その街には、母方の叔母が住んでいました。彼女は一軒の理髪店を営んでおり、そこはいつも、清潔な石鹸の香りとハサミの軽やかな旋律に満たされていました。完全予約制のその店で、私は地元から持参した小さなお土産を叔母に渡し、まるで特別な賓客のように椅子に深く腰掛けたものです。
けれど、その幸せな場所のすぐそばを流れていた元荒川は、憧れとは裏腹の、ひどく傷ついた姿をしていました。
水面には色とりどりのゴミが浮遊し、川底からは、何かが腐敗してゆくような、重苦しい悪臭が漂っていました。私の記憶の索引において「汚れた川」という項目を引けば、真っ先に現れるのは、今でもあの元荒川の光景なのです。都会の華やかさのすぐ脇で、静かに窒息していたあの水の姿を思うと、今でも胸のあたりが微かに痛みます。
麩菓子と、消えた鯉たちの沈黙
私の実家があった田舎には、それとは正反対の、静謐な川が流れていました。
その透明な水の中には、見事な鱗を纏った鯉たちが、まるで沈黙を守る哲学者たちのように、悠々と泳いでいたものです。中には、雪のような白に鮮やかな紅を差した錦鯉も混じっていました。
近くの駄菓子屋には、彼らのための「贈り物」が用意されていました。大きな袋に詰められた麩菓子。わずか十円で手に入るその魔法の杖を手に、私たちは高さのある橋の欄干に立ちました。
五、六メートルも下にある水面へ、私たちは千切った麩菓子をそっと放り投げます。
すると、小学生の背丈ほどもある大きな鯉たちが、水面に美しい波紋を描きながら集まってくるのです。彼らが大きな口を開け、パクパクと麩菓子を吸い込んでゆく様子は、いつまで眺めていても飽きることがありませんでした。それは、人間と生き物との間に通い合う、ささやかで親密な交信の時間でもあったのです。
しかし、その穏やかな光景も、ある日突然、終わりを迎えました。
洪水から人間を守るという名目のもと、川はコンクリートの護岸によって固められ、鯉たちの棲処は失われてしまったのです。川は確かに「安全」な水路へと姿を変えましたが、そこから豊かな生命の呼吸は消え去りました。
鯉のいない清潔な水路を眺めるとき、私は深い喪失感に囚われます。命の輝きを奪ってまで手に入れた安全に、一体どれほどの価値があるのでしょうか。護岸工事など、すべきではなかったのではないか。けれど、失われた時間は、もう二度と元の標本箱に戻ることはありません。
ベトナムの風に吹かれながら、私は今も、過去と現在、そして自分自身の内側にある風景を重ね合わせています。
病という影から逃れるために漕ぎ続ける自転車。市場で見つけたゴーヤの苦み。そして、記憶の底で今も汚れ続けている元荒川と、失われた鯉たちの沈黙。
人生は、完璧な均衡を保つのが難しい、繊細な硝子細工のようです。
私はこれからも、自転車のペダルを一漕ぎずつ進めることで、自分の身体と心の中に、静かな調和を保ち続けたいと願っています。あの白い光の中で、鯉たちが再び自由に泳ぎだす日を、心のどこかで待ちわびながら。

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