耽溺

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街は、巨大な消化装置だった。
新宿歌舞伎町。そこでは、多国籍な言語とネオンの光が混ざり合い、胃液のような熱気となって通行人の皮膚をじりじりと焼いている。二十四歳のミツオが握るタクシーのハンドルは、もはや車体の一部というよりは、彼自身の肉体から突き出した異質な骨格のようだった。
「若い」ということは、この街においては剥き出しの臓器を晒して歩くようなものだ。ミツオは高卒でこの街の血流――タクシー運転手という仕事に潜り込み、四年。彼の網膜には、薬物で散開した瞳孔や、言葉の通じない暴力の残骸が、無機質な記号として焼き付いている。かつての秩序は、もはや砂のように崩れ去り、今はただ、化学物質の匂いと得体の知れない犯罪の蠢きだけが、この街の「正体」として居座っていた。
路地裏では、異なる国籍の男たちが、物理的な質量を持った沈黙と、鋭利な殺意を交換し合っている。アスファルトの亀裂からは、誰の血管を通ったかもわからぬ鮮血が蒸発し、夜空を赤黒く染めていた。


その夜、ミツオのタクシーのドアを叩いたのは、一つの「欠落」だった。
「……どこでもいい。ここじゃない場所。地図に載っていない場所へ」
女の声は、ひび割れたレコードのように乾いていた。バックミラーに映ったのは、山形出身だという二十歳のエリカ。その瞳は、一度焼き尽くされて白濁した、絶対的な虚無を宿している。彼女の腕には、少年院という名の「鋳型」が押し付けられた痕跡と、その後に塗り重ねられた、売春という名の皮膚の摩耗が、地層のように重なっていた。
ミツオはアクセルを踏む。車体は夜の粘膜へと滑り出す。
 二人の出会いは、制御不能なフィードバック・ノイズに似ていた。それはかつて、ロンドンの裏通りで、シドとナンシーが互いの破滅を唯一の結合点とした、あの閉塞した熱狂の再構築でもあった。
「山形……。あそこには、まだ人間が住んでいるのか?」
 ミツオが問いかけると、エリカは窓の外、歪んだホストクラブの看板を見つめたまま応えた。
 「あんな場所、もう私の記憶のゴミ捨て場にしかないわ。ここにあるのは、数字と、白い粉と、あとは名前を失った幽霊たちの行列だけ」
二人の生活は、円を描くように加速していった。ミツオのタクシーは、もはや客を運ぶための道具ではなく、現実という「壁」から逃走するための移動する密室となった。彼らは安宿を転々とし、時間の感覚を麻痺させる「錠剤」を貪る。エリカがそれを飲み込むたび、ミツオの意識の中で、新宿のビル群はぐにゃりと液状化し、巨大な幾何学的な迷宮へと変貌していく。
彼らの周囲には、いつしか見えない透明な障壁が築かれていった。
 外の世界では、外国人組織による新たな略奪のルールが書き換えられ、乾いた発砲音が夜の静寂をデザインしている。だが、その喧騒も、彼らの「箱」の中までは届かない。
「ねえ、ミツオ。私たち、最後はどの部品になるのかな」
 エリカは、植物のように痩せ細った体をミツオに預ける。彼女の体温は、冬の金属のように硬質で冷たい。
 「何にもならないさ。このタクシーのメーターが、無限大(インフィニティ)を表示して、粉々に砕け散るまではな」
だが、現実は冷徹な論理となって彼らを磨り潰しにかかる。

 金の欠乏は、存在の欠乏だった。エリカの禁断症状は、彼女の輪郭をさらに曖昧なノイズに変え、ミツオは彼女という「現象」を維持するために、道徳という名の境界線を踏み越えていく。タクシーのトランクには、人知れず消されるべき「重量」が積まれ、バックミラーに映る自分の顔は、もはや誰のものでもない、ただの肉の仮面と化していた。
シドとナンシーが、ニューヨークのホテルで迎えたあの救いのない終焉。
 それは愛の成就ではなく、自己というシステムを停止させようとした、不条理な計算ミスのようなものだった。
歌舞伎町の外れ、不法投棄された什器が山を成す裏通りで、ミツオはエリカを見つめた。
 彼女の白い腹部からは、鮮やかな、あまりにも鮮やかな拒絶の赤が溢れ出していた。誰に刺されたのか、あるいはこの街という機構そのものが、異物を排除するために彼女を貫いたのか。もはや、そんな因果律はどうでもよかった。
「……綺麗だね、エリカ。信号機の故障みたいだ」
 ミツオは、自分の手も同じ鮮血に染まっていくのを、どこか遠い場所から観察しているような気分で眺めていた。
 エリカは、わずかに唇を震わせた。その表情は、二十歳の娘のものではなく、歴史の果てを覗き見た預言者のようでもあり、言葉を持たない深海の生物のようでもあった。
「ミツオ、私……やっと、あの山形の雪の中に、埋もれていける気がする」
彼女の心臓が、最後の拍動を刻む。


 タクシーの無線機からは、誰のものとも知れぬ指令と雑音が、意味を持たない波長となって流れ続けている。
 ミツオは、冷たくなった彼女を助手席に深く座らせ、シートベルトを締めた。そして、再びハンドルを握った。
街は、依然として巨大な消化装置のまま、新しい獲物を待ち受けている。
 外国人たちの罵声、路上の取引、出口のない暴力。
 その全てを、ミツオはタクシーのハイビームで切り裂くように暴走する。
彼はアクセルを、床の鉄板を突き破らんばかりに踏み抜いた。
 時速が限界を超えた瞬間、新宿の景観は一本の光の線へと収束し、彼を縛り付けていたすべての「意味」と「質量」が、背後へと剥がれ落ちていった。
彼は、もはや人間ではない。
 彼は、走る観測装置そのものだ。
 彼は、エリカという名の「不在」を乗せて、重力さえも消失した虚空の地平へと、静かに、そして決定的に、消滅していった。
夜明け前の歌舞伎町。
 そこには、持ち主を失い、エンジンの熱だけを吐き出す一台の亡霊のようなタクシーと、雪のように白い、空っぽの薬莢が一つ、転がっているだけだった。

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