その日は土曜日。
熱を孕(はら)んだ風が、工場の錆びたトタンをなでていく。
人という生き物には、どうしようもなく「卑しい」部分がある。
そう言ってしまうと身も蓋もないが、私の心の奥底に、ふと濁った澱(おり)のようなものが沈殿しているのを感じる時、私はこの「卑しい」という言葉を、自戒を込めて使いたくなるのだ。
だが、そんな卑しさを抱えた私を、春の陽光のような温かさが包み込んだ。
それは、ある土曜日の午後のことである。
隔週で営業する我が社の土曜日は、静かなものだ。
平日の喧騒が嘘のように、出勤する者は普段の五分の二ほどに過ぎない。A班、B班。その割り振りはどこか曖昧で、適当な采配によるものだが、結果として食堂の椅子は、その三分の二が空席のまま、ぽっかりと口を開けている。
契約の都合で完全週休二日を謳歌する者もいれば、静まり返った工場内で黙々と手を動かす者もいる。
そんな、どこか物憂げな午後の十二時三十分。
「らむ銀さん、一緒に食べましょう」
声をかけてくれたのは、私が日頃からサポートしている中国人の女性たちだった。
彼女たちの誘いは、唐突で、そして何よりも純粋な響きを持っていた。
食堂の一角に足を踏み入れると、そこには異国の香りが立ち込めていた。
それは、日本の醤油や出汁の匂いとは一線を画す、力強く、そしてどこか懐かしい、大陸の熱気を感じさせる香り。
四人の女性たちが、それぞれ一品ずつ、精魂込めてこしらえた料理を携えて集まっていたのだ。
テーブルの上には、四つの皿が、まるで宝石のように並んでいる。
一皿目。
骨付きの鶏肉。ネギとニンニクの芳醇な香りが鼻をくすぐる。オイスターソースの深い琥珀色のタレが、片栗粉の魔法でとろりと肉に絡みつき、艶やかな光を放っている。一口噛めば、肉汁とともにニンニクの刺激が喉を駆け抜ける。
二皿目。
鮮やかな緑のブロッコリー。醤油と胡麻油の香ばしさに、唐辛子の赤が彩りを添える。シンプルゆえに、野菜の甘みと油の力強さが真っ向からぶつかり合っている。
三皿目。
豚足の煮付け。長い時間をかけて煮込まれたのであろう、その身は驚くほど柔らかい。箸を入れれば、ぷるりと震え、口の中で溶けていく。コラーゲンの甘みが、じわじわと身体に染み渡るようだ。
四皿目。
涼皮(リャンピー)とキュウリの和え物。酢の酸味と辣油の辛みが、火照った身体を心地よく冷やしてくれる。ツルリとした喉越しは、まるで春の小川のせせらぎを飲み込んでいるかのようだった。
そして、傍らには揚げたての油条(ヨウティエ)と、ふっかりと蒸し上げられた白いマントウ。
私は、それらの料理を前にして、思わず計算をしてしまった。
ああ、やはり私は卑しい。
週に一度、馴染みの中華料理店に足を運ぶが、二人で二千五百円は下らない。この食堂に並んだ品々を、もし店で頼んだならば、一品千五百円、しめて六千円。主食や飲み物を合わせれば八千円を優に超える贅沢な宴だ。
だが、計算を終えた私の心に残ったのは、数字ではなかった。
それは、彼女たちの「真心」という名の、形のない重みであった。
私は彼女たちに、ささやかな手助けをしてきたに過ぎない。
入管への同行、市役所や銀行での煩雑な手続き。言葉の壁に突き当たる彼女たちのために、中国語を解する私が、車を出して送り迎えをする。
「中国語ができる」
ただそれだけのことが、これほどまでに誰かの助けになり、そしてこれほどまでに温かな「もてなし」として返ってくる。
それは、語学を志した者にとって、これ以上の冥利はないと言えるだろう。
計算高い私の心は、彼女たちの愛情に触れ、いつの間にか霧散していた。
八千円という金額では、到底計り知ることのできない、魂の交流。
何か、恩返しをしなければならない。そう思った。
今度は、私が彼女たちを驚かせる番だ。
日本の、四季を感じさせるような美しいお菓子を、そっと用意しよう。
あの日、食堂を通り抜けた風のように、さりげなく、それでいて確かな温かさを込めて。
卑しい心から始まった計算は、いつしか、春の夢のような幸福感へと変わっていた。
空高く、雲は流れていく。
それもまた、一つの理(ことわり)なのかもしれぬ。


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