ニューヨーク、タートル・ベイ。
国際連合本部の巨大な石造りの器の中に、私はいた。
九月の湿った風がハドソン川から吹き寄せ、重い扉を抜けて、私の繊細な皮膚を撫でる。新卒という、まだ何の色にも染まっていないはずの自分の立場が、この巨大な空洞の中では、まるで透明な鱗(うろこ)を纏った魚のように心細い。
私の名は、小夜。
大学を卒業して数ヶ月、私は運命の悪戯(いたずら)のような縁で、日本政府代表団の随行員としてこの場所に立っている。議題は「女性の地位向上と経済的自立」。
総会の議場は、高い天井から降り注ぐ人工的な光に満たされていた。そこには、世界中の言葉が濃密な霧のように漂い、互いにぶつかり合っては消えていく。私の耳に装着されたヘッドフォンからは、同時通訳の乾いた声が、断続的なノイズと共に流れ込んでくる。
「……次に、日本代表、小夜氏」
議長が私の名を呼んだ。その響きは、冷たい水の中に投げ込まれた小石のように、私の胸の奥に波紋を広げた。私は立ち上がり、演壇へと向かう。私の足音は、厚い絨毯に吸い込まれ、どこにも辿り着かない。

マイクの前に立つ。視界の端で、多くの国々の代表たちが、退屈そうに、あるいは義務的に、私の小さな体躯を見つめているのが分かった。
私は、用意していたスピーチ原稿を一度も開かなかった。
代わりに、私の脳裏に浮かんでいたのは、東京の、あの狭いアパートの窓から見えた、暮れなずむ空の色だった。
「私たちは、ずっと『クレジット』を払い続けてきました」
私の声は、自分でも驚くほど静かに、議場に響き渡った。
「経済的な信用(クレジット)のことだけを言っているのではありません。私たちがこの社会で生きていくために、常に誰かから借り受け、払い続けなければならない、目に見えない債務の話です」
私は、自分の母のことを思った。
母は、父の影として生き、家事という名の、一銭の対価も発生しない労働を四十年続けた。彼女には、自分名義のクレジットカードさえなかった。彼女の社会的な信用は、すべて父という存在を介してのみ、かろうじて成立していた。
「日本という国で、女性が生きていくことは、他者の物語の余白に、自分自身の存在を書き込んでいく作業に似ています。私たちは、生まれながらにして、社会から『生存のクレジット』を貸し付けられているようなものです。結婚し、子供を産み、慈愛に満ちた母であり、かつ有能な労働者であること。その条件を満たし続けて初めて、私たちは自分の居場所を維持することを許される。もし、その支払いが一度でも滞れば、社会は容赦なく私たちを『不良債権』として扱います」
議場が、わずかに静まり返った。
私は、孤独で、しかし水のように形を変えながら浸透していく言葉を探した。
「私が今日、ここで訴えたいのは、制度の充実だけではありません。私たちが、誰の承認も必要とせず、ただそこに存在しているだけで『完結』できるような、そんな日本であってほしいということです。自分名義の人生を、利子を払わずに生きていける場所。夜、一人で歩いていても、誰の視線にも怯えず、自分の呼吸の音だけを信じて歩ける道。それが、女性にとっての真の『住みやすさ』ではないでしょうか」
私は、かつて自分が歩いた新宿の裏通りの、湿ったアスファルトの匂いを思い出した。
自動販売機の光が、雨に濡れた路面を青白く照らしていた。あの光の中にいた私は、確かに誰のものでもなかった。しかし、その自由は、いつ消えてもおかしくない、危うい幻のようでもあった。
「国際連合という、この巨大な組織が語る『人権』や『平等』という言葉が、どうか、あのアスファルトの冷たさを知っている一人の女性の指先にまで、届くものであってほしい。私たちは、もう、誰かのクレジットの裏打ちとして生きたくはありません。私たちは、自分自身の光を、自分自身の言葉で、この世界に刻印(クレジット)したいのです」
言葉を終えたとき、私は自分が酷く汗をかいていることに気づいた。
背中に張り付いたブラウスの感覚が、生々しく私の存在を主張している。
拍手は、すぐには起こらなかった。
それは、重い雲が垂れ込めた午後の、降り始める直前の雨のような、静かな沈黙だった。
やがて、ポツリ、ポツリと、誰かが手を叩く音が聞こえ始めた。それは次第に大きくなり、議場の高い天井に反響して、私を包み込む波となった。
演壇を降りる私の視界に、一人の年配の女性代表が、深く頷く姿が見えた。彼女の瞳は、遠い記憶の底にある、自分自身の痛みを思い出しているかのようだった。
私は、再び自分の席に戻った。
ニューヨークの空は、いつの間にか厚い雲に覆われ、窓の外では、静かな雨が降り始めていた。
「小夜さん、よかったわよ」
隣に座っていた年配の職員が、小さな声で私に囁いた。
私はただ、力なく微笑んだ。
私の語った言葉が、どれほどの重さを持ち、どれほどの距離を届いたのかは分からない。
しかし、私の胸の奥では、何かが確かに変わっていた。
これまで私を縛り付けていた、目に見えない借用書が、この雨の音と共に、ゆっくりと溶けていくような気がした。
私は、自分自身に、一つの新しいクレジットを付与しようと思った。
それは、明日を、自分の足で踏みしめていくための、小さな、しかし確かな許可証だ。
国際連合の巨大な石の建物の外では、雨に打たれるマンハッタンの街並みが、水に滲んだ水彩画のように、どこまでも淡く、優しく広がっていた。私はその景色を、ガラス越しに、いつまでも、いつまでも見つめ続けていた。


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