掃除する社長

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僕がこれまでにいくつかの工場を管理してきて学んだのは、管理という行為が、教科書に書かれた数式のようなものではないということだ。それはむしろ、長い年月をかけて皮膚に馴染んでいく古い上着のようなものだ。理屈じゃない。現場の泥にまみれ、機械の油に触れ、社長や幹部たちが日々の業務の積み重ねの中で、静かに、そして確実に習得していく種類のものなのだ。

そこから汲み取るべき教訓は多岐にわたるかもしれないが、最後にはひとつの場所に集約される。 結局のところ、それは「初心を忘れない」という、極めてシンプルで、それでいてひどく困難な規律に辿り着く。

うちの社長はよく、工場の構内で掃き掃除をしている。 想像してみてほしい。一企業のトップが竹箒を持って、コンクリートの上の塵を払っている姿を。 そこには、ある種の奇妙な空白がある。

「社長にこんなことをさせるなんて、周りの人間は気が利かないのか?」 「あるいは社長が、あてつけのためにパフォーマンスでやっているのか?」

もし彼がそんな卑屈なプライドや、見せかけの承認欲求のために掃除をしているのだとしたら、その習慣は長くは続かないだろう。掃除という行為は、もっと純粋なものだ。僕もかつて工場長というポストに身を置いていたからわかるのだが、そこには明確な「利益」がある。だからこそ、それはごく自然な日課として成立するのだ。

立場が上がれば、親会社の要人とテーブルを囲んだり、複雑な商談に神経を削ったりする機会が増える。役職同士の、いわば「言葉のチェス」のような対話だ。 そこで僕が痛感するのは、相手がこちらの何を評価しているかという点だ。 彼らは数字だけを見ているわけではない。彼らが嗅ぎ取っているのは、その人間が「自分の会社にどれほどの愛着を持っているか」という、目に見えない匂いのようなものだ。

部下に5Sを説き、QCサークルを動かし、組織の意識を底上げしていく。 社長が自ら箒を握るという行為には、そうした重層的な意味が込められている。

もちろん、社長の真意を理解しない人間は「やらされている」と感じるだろう。それは避けられないことかもしれない。 しかし、もしそこに「コアなる概念」の統一がなければ、協力関係という名の繊細な歯車は決して噛み合わない。

そのコアな概念こそが、僕たちが「初心忘るべからず」と呼んでいる、あの古風で、しかし欠かすことのできない精神の在り方なのだ。

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