静かな蒼、カンボジアの原風景

 鈴木英人のイラストを眺めていると、ときどき自分の中にある「記憶の彩度」が調整されるような感覚に陥ることがある。  どこまでも突き抜けた、透明度の高い真っ青な空。その蒼は、単なる色の名前ではない。それは、すべてのノイズを排したあとに残る、ある種の完璧な静寂の象徴だ。鈴木氏の作品に共通して流れるあの「静かな蒼」は、僕たちが現実の世界で失ってしまった、あるいは最初から持ち合わせていなかった理想の欠片のように見える。
その蒼に、片岡義男の小説を重ね合わせてみる。視界の先、地平線へと真っ直ぐに延びていく乾いたロード。路面から立ち上る陽炎を切り裂き、キャデラックが風を孕んで進む。カーステレオからは南佳孝の、あの都会的な倦怠を帯びたメロディが流れてくる。

 そこにあるのは、記号化された「南国」であり、僕たちが消費してきたスタイリッシュな幻想だ。しかし、記号はどこまで行っても記号でしかない。本当の風景というものは、もっと不潔で、もっと残酷で、そして圧倒的な暴力性をもって僕たちの前に現れる。
カンボジアの空は、僕がこれまでに見てきたどの国の空とも決定的に違っていた。空気が澄んでいるとか、汚染されていないとか、そんな言葉では説明がつかない。プノンペンの都市化は加速度的に進み、街には無機質なコンクリートと排気ガスの臭いが充満し始めているが、一歩郊外へ踏み出せば、そこにはまだ「何もない」という名の過剰な風景が広がっている。
天を突くように等間隔で並ぶ背の高いヤシの木。その根元に広がる、どこまでも重く湿った湿地帯。泥にまみれた牛がゆっくりと歩み、太古から変わらないリズムで耕作が続けられている。それは、かつて僕たちが映画のスクリーン越しに「これが南国だ」と信じ込まされてきた光景そのものだった。しかし、その光景は映画以上に生々しく、映画以上に「カンボジア」というリアリティを突きつけてくる。


なぜ、カンボジアでこれほどまでの既視感と違和感を同時に覚えるのか。それはおそらく、隣国であるベトナムの風景が、僕の期待していた「ベトナム」ではなかったからだろう。
かつて、フランシス・フォード・コッポラが監督した『地獄の黙示録』という映画があった。  映画史に残るあの巨大なスケールの作品は、多くの人々の脳裏に「ベトナム=鬱蒼とした密林」という強烈な刷り込みを行った。ジャングルの深淵に迷い込み、精神を病んでいく兵士たちの前に、突如として巨大なトラが現れるシーン。その圧倒的な恐怖と神秘性は、僕たちの想像力を強く刺激した。
しかし、実際にベトナムの地を歩いてみれば、そこにあるのは映画が描いたような「密林」ではない。ベトナムは驚くほど耕作が盛んな国だ。国土の多くは平坦な大地が広がり、整然と区画された農地が延々と続いている。山らしい山は少なく、視界を遮るような深い原生林に出会うことは稀だ。川の両脇にマングローブや木々が生い茂っている箇所は確かに存在するが、それはあくまで点在する風景の一部に過ぎない。映画が描き出した、一歩足を踏み入れれば二度と戻れないような暗黒の密林は、少なくとも僕がこの目で見たベトナムには存在しなかった。
トラが潜むような深い森がない場所で、人は何に怯え、何に救いを求めるのか。
物語というものは、ときに現実を塗り替えてしまう。『地獄の黙示録』の撮影がフィリピンで行われた事実は有名だが、観客はフィリピンのジャングルをベトナムの象徴として受け入れた。記号としての「密林」が、本物のベトナムの風景を駆逐してしまったのだ。
翻って、カンボジアはどうだろうか。車窓を流れるヤシの木と湿地帯のコントラストを見つめながら、僕は思う。ここにあるのは、かつての映画が「ベトナム」として描き損ねた、あるいは描き切れなかった「南国の原型」ではないか。牛が泥を噛み、ヤシの葉が風にそよぐその単調な繰り返しの中に、都市化という名の均一化に抗う、剥き出しの生命力が潜んでいる。
鈴木英人が描いた「蒼」が、ノイズを削ぎ落とした果ての純粋な記号だとするならば、カンボジアの風景は、その対極にある「ノイズそのもの」だ。湿気、泥の臭い、牛の呼気、そして容赦なく降り注ぐ太陽の光。それらが渾然一体となって、僕の網膜に焼き付いて離れない。
キャデラックでロードを飛ばすような軽快な物語は、ここにはない。あるのは、逃げ場のない湿った空気と、どこまでも高い空だけだ。  それでも、あるいは、だからこそ、僕はその風景に強く惹かれる。
かつて誰かが作り上げた「南国」のイメージと、目の前にある「剥き出しの現実」。その乖離を埋めることのできないまま、僕はただ、カンボジアのヤシの木を眺め続けている。そこには、どんな洗練された言葉も届かない、重厚な沈黙だけが横たわっていた。

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