ホームシックの涙

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北京の空は、夕暮れ時になると、吸い殻を押し付けた後のような、ひどく曖昧で寂しい色に染まる。
留学生活を送っていた寮では、生き物を飼うことは厳禁とされていた。けれど、僕たちの部屋には「ポチ」と名付けられた一羽のウサギが居座っていた。食用として売られていたところを、見るに見かねた友人が救い出してきたのだ。
 鼻の穴を「フガフガ」と小刻みに広げている様は、見ているこちら側の自意識が少しずつ削り取られていくような、危うい愛らしさがあった。その噂は階下のメイドたちの耳にも届き、わざわざポチをひと目見るためだけに、誰かが部屋を訪ねてくることも珍しくなかった。
そんなポチだが、狭いベランダに押し込めておくのは忍びなく、僕は時折、寮の屋上へと彼を連れ出した。運動不足でウサギの精神が濁ってしまうのを恐れたからだ。
 僕はてっきり、ウサギという生き物は夜行性なのだと思い込んでいた。けれど実際は「薄明薄暮性(はくめいはくぼせい)」という、明け方と夕暮れ時にだけ活動的になる性質を持っているらしい。なんとも中途半端で、へんてこな動物だと思う。
 薄明かりに包まれた屋上で、ぴょんこぴょんこと跳ね回るポチの姿には、猫の優雅さとも違う、どこか頼りなげで、放っておけないかわゆさが宿っていた。
ある日の夕暮れ、屋上でポチの軌跡を追っていると、視界の隅にメイドの制服を着た少女がいた。
 最近入ってきたばかりの彼女の名前は「常雲(チャンユン)」といった。常に、雲。
 日本語の感覚でいえば、なんだか重たくてネガティブな名前に聞こえるけれど、中国ではそれほど違和感のある響きではないらしい。当時二十一歳の彼女は、驚くほど向学心に溢れていた。


僕は中国語の勉強のために、毎日新聞を購読していた。一階のラウンジに届けられるその新聞を、彼女は僕が朝七時に取りに行くまでのわずかな時間、食い入るように読んでいた。
 当時の中国で新聞を個人で購読するのは、決して安い出費ではない。メイドとしての彼女の薄給を考えれば、よほどの熱意がなければ手が出ない贅沢品だったはずだ。
 僕は彼女のその「熱」を邪魔したくなくて、いつしか新聞を取りに行く時間を午後へとずらすようになった。自分もかつて、読みたかった本を本屋で立ち読みしていたときの、あの切実な背徳感を思い出したからだ。
名前に話を戻せば、中国の女の子には「花鳥風月」を連想させる漢字がよく使われる。
 日本のように抽象的な意味合いの名前は男の子に多く、「美しく静かな」といった情景を想起させる字が好まれる。一方で、日本では忌避されがちな「雨」や「氷」といった、どこか冷たさを感じさせる漢字も、あちらでは名前の一部として自然に受け入れられていた。
 パンダのように同じ音を繰り返す名前も、重ねることで音が可愛らしくなるからと、男女問わず付けられることがある。常雲という名前も、そんな複雑な文化の襞(ひだ)の中に、静かに収まっているのかもしれない。
屋上の隅に佇んでいた常雲は、錆びた手すりに肘をつき、沈んでいく夕日を見つめていた。
 近づいてみると、彼女が途方に暮れたような顔で、静かに泣いているのが分かった。夕日の彼方に、彼女は遠い故郷の空を重ねていたのだろう。
 中国という広大な土地において、家を離れて出稼ぎに出ることは、僕たち日本人が外国へ行くのと同じくらいの覚悟を強いる。今でこそ高速鉄道が四方に張り巡らされているが、当時はローカル列車を何時間も乗り継がなければ帰れない場所がほとんどだった。
 なかなか帰れない故郷を思い、涙を流す。それは至極当然のことであり、その心の揺らぎの中に、僕は美しい家族愛の断片を見た気がした。

そのとき、足元を自由に走り回っていたポチが、ぴょんこぴょんこと彼女の足元へ近づいていった。ポチは彼女のサンダルに鼻を押し付け、相変わらず「フガフガ」と忙しなく動かしている。
 彼女が視線を落とすと、そこには自分の悲しみなど露知らず、ただ好奇心のままに鼻を鳴らす小さな命があった。
 彼女は僕の存在に気づくと、少しだけ照れ臭そうに一瞥をくれ、それからしゃがんでポチを抱き上げた。屋上のパラペット(低い手摺り壁)が、簡易的なベンチの代わりになっていた。
「あなたは、どこから来たんですか?」
 僕は、彼女の濡れた頬を直視しないようにして尋ねた。彼女は「リンゴのほっぺ」と周囲に冷やかされるほど、頬が赤いことで有名だった。その赤みが、涙に濡れてさらに鮮やかさを増していた。
「長春(チャンチュン)です」
 北京から地図を見ればそれほど遠くないようにも思えるが、インフラの整っていない当時のことだ。駅から目的地まで、さらに何時間もの過酷な移動が待っているはずだった。
「長春にいる母が病気になったと聞いて、心配になってしまって……」
「そうか。それで、入院したの?」
「入院はしていません。父からは『大事には至っていない』と連絡があったのですが、どうしても悪いことばかり考えてしまって」
彼女の母親は、昔からあまり身体が丈夫ではないのだという。
 言葉を失った僕の代わりに、腕の中のポチが何かを察知したように、「キーッ」と小さく鳴いた。
「ウサギって、鳴くんですね」
 彼女が少し驚いたように、けれどどこか楽しげに言った。
「そうですよ。怒ったり、怖がったりすると鳴くんです」
「ウサギは好きですよ。お祝い事があれば家で食べることもありましたから。何度かそんな話を聞いたことがあります」
彼女は、ポチを抱いて「よしよし」と優しく揺らしながら、少しだけ笑みを浮かべて語ってくれた。


 ポチが鳴いたのは、もしかしたら「食べられる」という物騒な単語に反応したからかもしれないけれど、結果として彼女に笑顔が戻ったのだから、ポチは立派な仕事をしたといえる。
夕闇が本格的に降りてくる前に、まだ間に合うかもしれない。
 僕は常雲とポチを屋上に残し、近くの市場まで走ることにした。
 あの大層な手柄を立てた小さな同居人のために、彼が大好きな、瑞々しいキャベツを買ってあげようと思ったのだ。
 ポチの「フガフガ」という音が、北京の乾いた夜風にかき消されていく。
 僕は市場へと続く階段を駆け下りながら、ほんの少しだけ、この街の冷たさが和らいだような気がしていた

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