私は今年で十八になる。書生という身分は、世間の風波(ふうは)をよそに、古びた書物と格闘していれば済む気楽な稼業(かぎ業)に見えるやも知れぬが、その実、内面は得体の知れぬ焦燥に焼かれているものである。胃弱を患うのも無理はない。叔父の勧めもあり、この度、越後の山奥にある寂れた湯治場へ、心身の洗濯に参った次第である。
その宿の湯は、濁(にご)り酒を薄めたような妙な色をしておった。薄暗い湯船には、硫黄の鼻を突く臭気と、古い木材が腐朽(ふきゅう)していくような、陰気な匂いが充満している。神経痛を病む老人が一人、石仏のように動かず浸かっているきりであるが、その老人からも、何やら枯れ木のような、あるいは古い埃のような臭いが漂ってくるようで、私は、その老人から最も離れた、湯口の傍(かたわ)らに身を沈めた。
「女を知らぬ」ということは、書生にとって一種の勲章のごとき清廉さを意味する一方で、同時に、拭い去れぬ劣等感の源泉でもあった。倫理書をいくら紐解(ひもと)いたところで、この青臭い肉体が要求する不可解な引力については、何一つ記されてはおらぬ。
湯気の向こうで、古びた板戸が、ガラリと無遠慮な音を立てた。
私は、心臓が肋骨を裏側から激しく叩く音を聞いた。霧の向こうから現れたのは、齢(よわい)二十ばかりと思われる、一人の女であった。
その女が脱衣場から浴室へ足を踏み入れた瞬間、場の空気が一変したのを、私はまず嗅覚(きゅうかく)によって知った。それまでの硫黄と塵(ちり)の臭いが、一瞬にして、濃厚な、かつて嗅いだことのないような甘い香りに凌駕(りょうが)されたのである。それは、安っぽい白粉(おしろい)の匂いではない。もっと根源的な、皮膚の奥底から滲み出るような、生命そのものの香気であった。
その女は、私の存在など端(はな)から眼中にないといった風情で、手桶を取ると、ざあざあと無造作に湯を浴びた。その度に、白磁(はくじ)のような肌が湯気を切り裂いて露(あら)わになり、それと同時に、彼女の体温によって温められた例の香気が、湯気と共に浴室中に立ち込め、私の鼻腔(びくう)を執拗(しつよう)に愛撫した。
私は、狼狽(ろうばい)した。視線を天井の蜘蛛の巣に定めようとも、この匂いからは逃れようがない。それは、私の意志とは無関係に、呼吸と共に肺腑(はいふ)の深くまで侵入し、脳髄(のうずい)を直接麻痺させるかのごとき引力を持っていた。倫理書をいくら紐解(ひもと)いたところで、この青臭い肉体が要求する不可解な引力については、何一つ記されてはおらぬ。
女が、湯船に足を踏い入れた。
湯が波打ち、私の貧弱な胸元を騒がせる。女は、私の斜め向かい、距離にして三尺ほどの処(ところ)へ、躊躇(ちゅうちょ)なく腰を下ろした。
濁った湯の中にあってなお、その肢体(したい)の「肉」の存在感は、圧倒的であった。それは、書物の中に描かれる抽象的な「美」などでは断じてない。重力を持ち、温もりを持ち、そして、明白な意志を持ってそこに在(あ)る、生命の塊(かたまり)であった。
二十歳の肉体というのは、これほどまでに完成されたものか。肩から腕にかけての、柔らかな、しかし弛(ゆる)みのない曲線。湯を弾(はじ)く皮膚の、不可思議な弾力。私の十八年の生涯において、これほどまでに濃厚な「生」の現実に触れたことはなかった。
私の嗅覚は、さらに鋭敏になった。彼女が湯に浸かったことで、彼女自身の香りが、濁った湯の匂いや硫黄の臭いと複雑に絡み合い、変容を遂げていた。それは、熟しきった果実が発するような、あるいは、雨上がりの湿った土が放つような、どこか官能的で、かつ野性的な匂いであった。
女は、少し顔を上気させ、軽く目を閉じている。その無防備な横顔に対し、私は、畏敬(いけい)の念と、言語化し難い浅ましき欲望とが、複雑に絡み合った感情を抱いた。このまま湯に溶けてしまいたいような、あるいは、この女をここから連れ去りたいような、途方もない空想が頭を駆け巡る。
胃の腑が、きりきりと痛み出した。これは胃弱のせいではない。あまりに強烈な「他者」を、しかも嗅覚という最も無防備な感覚から受け入れたことによる、精神の拒絶反応であった。彼女の匂いが、私の思考を停止させ、ただの「男」としての本能だけを浮き彫りにしていた。
どのくらいの時間が過ぎたろうか。女は、ふう、と小さく溜息をつくと、あっけらかんと湯から上がり、濡れた体を隠そうともせず、脱衣場へと去っていった。
板戸が閉まると、浴室は再び、老人と硫黄の臭いへと戻った。しかし、私の周囲には、未だに彼女が去った後に残された、あの強烈な、生命そのものの匂いが、幻影のように漂い続けていた。
私は、冷え切った心臓を抱えながら、なおも濁った湯の中に、いつまでも浸かっていた。女を知るということは、かくも苦しく、かくも惑(まど)わしき、そして、かくも匂い立つ、胃に悪い出来事であったのである。


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