灰皿と回鍋肉、面子と沈黙

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 言いそびれていたが、その晩、私は一人の女性と食事をしていた。彼女は二人目の家庭教師で、食卓を囲む間、驚くほどに箸を動かさない。その静謐な食べっぷりは、ある種の宗教的な儀式を見ているようで、私は器に残る回鍋肉の照りをただ眺めることしかできなかった。
中国の女性には、男性の前では食を慎むという、ゆかしいのか不可解なのか判別のつかない美徳があるらしい。しかし、それはあくまで「男性の視界」の中に限られた話である。私がふと席を立ち、お手洗いに向かう。その数分間、彼女たちがどのような変貌を遂げているのか、私は当初知る由もなかった。
戻ってきた席で私が目にするのは、さっきまで山を成していた料理が、まるで幻影であったかのように消え失せている光景である。皿は磨かれたように白く、ただ微かな油の跡が、そこに激しい闘争があったことを物語っている。華奢で小柄な彼女が、私の不在という一瞬の隙を突き、怒涛の勢いで全てを平らげたのだ。その食いっぷりは、もはや「がつがつ」という卑近な言葉では追いつかない、生命の根源的な爆発のようなものだったのだろう。
彼女は、少しだけ申し訳なさそうな、あるいはやり遂げた者のような顔をして、「少し払わせてください」と切り出してきた。中国の慣習において、女性が財布を出すことは極めて稀である。


 日本人と中国人の間には、確かに所得の差という現実が横たわっている。だからこそ、日本人が支払うことは暗黙の了解であり、ある種の「役割」のようなものだと考えていた。しかし、今こうして記憶を辿り直してみると、意外にも中国人の方からご馳走になる機会は、私が思っていた以上に多かったように思う。
そこには、彼らが命よりも大切にする「面子(メンツ)」という、重厚で厄介な習慣が潜んでいる。複数の人間で食事をすれば、会計の段になって必ずと言っていいほど「小競り合い」が始まる。それは決して殴り合いに発展するような殺伐としたものではないが、傍から見れば、今にも友情が崩壊するのではないかと危惧するほどの熱量を帯びている。
 彼らは必死になって、自分が払うのだと叫ぶ。それは社交辞令という枠を超え、互いの関係性を深めるための、激しくて温かい、一種の伝統芸能に近いやり取りであった。


 さて、回鍋肉を平らげ、胃袋が満足を覚えると、次に来るのは煙草への欲求である。一服して、脂っこい口の中を紫煙で中和したい。しかし、見渡せば店は掃除を終えたばかりのようで、どこか煙草を吸いづらい空気が漂っている。
 私は、通りかかった服務員を呼び止め、「灰皿はないか」と尋ねた。すると彼女は、少しの迷いもなく、料理を盛るための清潔な小皿を一枚、私の前に置いたのである。
確かに、形状としては灰皿の代わりを務めるに十分である。しかし、私の思考はそこで止まることを許さない。小皿は灰皿ではない。それは本来、食べ物を盛り、人の口へと運ばれるための器である。一度灰皿として酷使された後、再び洗われ、明日には別の誰かの回鍋肉を受け止めることになるかもしれないこの皿の宿命を思うと、私の右指は硬直した。
「これは料理に使うものでしょう?」
 私は控えめに、しかし確かな違和感を持って伝えた。しかし、彼女は「大丈夫、問題ない」とだけ言い残し、背中を向けて去っていった。その潔いまでの無頓着さに、私は日本人的な潔癖さと、大陸的な合理性の間に生じる、深い溝のようなものを感じる。
食器であるはずの小皿。そこに、私は恐る恐る灰を落とす。真っ白な陶器に落ちる、灰色の欠片。本来の用途から逸脱したその器の上で、私は至福のひと時を過ごそうと試みる。けれど、吸い込む煙の味は、どこか罪悪感と可笑しみが入り混じった、複雑な余韻を残すのであった。

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