語学習得の「近道」

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 師大には、どこを見渡しても優秀な学生ばかりであった。
その勤勉さは、朝の光のように澄んでいて、語学を学ぶ者たちは、校舎の壁に向かい、大きな声で音読を繰り返していた。声は壁にぶつかり、わずかな反響となって彼らの耳に戻る。その響きを確かめながら、発音を磨いてゆくのである。
 語学とは、こうした素朴な営みの積み重ねによって身につくものなのだろう。私自身、先に留学していた先輩から音読の効用を教えられ、その言葉が嘘ではないことを、日々の学びの中で知った。
 中国では、勉強とは「暗記すること」であると、古くから信じられている。その信念は、学生たちの姿勢に、どこか厳粛な影を落としていた。


 私は当時、日本人大学生の岩崎君(仮名)と同じ部屋で生活していた。彼は留学生の間でも名の知れた秀才で、中国語の習得が驚くほど早かった。その聡明さゆえか、女性にも人気があったらしく、語学の相談を受ける姿をよく見かけた。夜遅くまで机に向かっていることも知っていたが、その勉強ぶりは、決して華やかなものではなかった。音読し、単語を何度も書きつけ、まるで小学校の頃に戻ったかのような、泥臭い方法を淡々と続けていたのである。だが、その地道さこそが、彼を支えていたのだろう。
 一方の私は、パソコンを携えて留学に臨んだ。効率の良い学習法ばかりを追い求め、肝心の習得にはなかなか辿りつけなかった。語学とは、本来「読む・書く・聞く」の三つが揃って初めて身につく学問であるのに、その当たり前のことを、私はどこかで忘れていたのかもしれない。


 「聞いただけで言葉が堰を切ったように出てくる」そんな甘い言葉を耳にすることがあるが、あれは大嘘である。
薄い教科書でもよい、何度も繰り返し声に出して読み、口に覚えさせる。
単語は何度も書き、手に覚えさせる。
音は繰り返し聞き、耳に覚えさせる。
この三つの道こそが、語学への最も確かな近道なのだ。
出会った文章は、まず書いてみる。そして声に出して読んでみる。その習慣だけは、今もなお私の中に息づいている。まるで、あの頃の若い日の記憶が、静かに続いているかのように。

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