――中国の大衆餃子屋で知った、身体と食の不思議な関係――
身体が求める「医食同源」の真実
人間という生き物は、放っておけば自分の好きなものばかりを食べてしまう。しかし、本能の赴くままに偏った食生活を続けていれば、いずれ確実に健康を害してしまうのは明白な事実である。
だが、人間の身体と味覚には、実に不思議なメカニズムが備わっている。じっくりと自分の食の歴史を振り返ってみれば、かつて「こんなに不味いものは二度と口にしたくない」と激しい嫌悪感を抱いたはずの食べ物を、年月を経て、気づけばとんでもなく愛食しているという経験は誰にでもあるのではないだろうか。
これこそが、古くから東洋に伝わる「医食同源」の本質なのかもしれない。薬も日々の食事も、根源は同じであり、身体がその栄養素や効能を本当に必要としている時、かつては拒絶していた独特の苦みや風味が、なぜか細胞レベルで「美味しい」と感じられるように変化していくのである。
この味覚の劇的な反転を象徴する、私にとって最大の例が、あの強烈な個性を持つハーブ「香菜(シャンツァイ)」、いわゆる「パクチー」であった。

出会い、そして激しい拒絶:香菜への悪態
私がかつて中国に滞在していた初期のころ、香菜との出会いは、それ以前の短い旅行の経験の中で、すでに最悪の形で済ませていた。当時の私にとって、香菜はどう頑張っても人間の食べられる代物ではなかった。
あの独特の口の中に広がる異臭は、例えるなら「プラスチックをパチパチと直接火で焼いた時」のような、おぞましい化学的な風味に感じられたのだ。料理の湯気とともに立ち上るその匂いを嗅ぐだけで、胃の腑がひっくり返りそうになったものである。
「中国の人民たちは、どうして味音痴にもほどがあるあんな代物を、ありとあらゆる料理にこれでもかと振りかけることができるのだろうか。彼らの神経がまったく理解できない」
当時の私は、文化の違いを受け入れる余裕もなく、心の中で激しい悪態をついていた。あんなプラスチックの燃え殻のようなものをありがたがって食べているなんて、中国はとんでもない味音痴大国だ、何が嬉しくて美味そうに食っているのか、大馬鹿野郎の集まりだ――。それほどまでに、当時の私の味覚にとって香菜は耐えがたい敵であり、完全に拒絶の対象だったのである。

中国の大衆食堂と、ビールを片手の試行錯誤
当時の私は無類の酒飲みであり、中国での食事の時間は、常に冷えたビールを片手に持って、現地のローカルフードを楽しむのが日課となっていた。
中国のビールは、現地の一般大衆が行くような気軽なお店であれば、驚くほど安価で手に入った。日本円に換算すれば、お店で飲んでも、わずか30円(当時のレートで2元くらい)程度という破格の安さである。水代わりにビールを煽りながら、私は毎晩のように現地のディープな味を探索していた。
そんな私が、とりわけ頻繁に通っていたお気に入りの餃子屋があった。そこは、地元の人々が日常の食材を買い求める、活気あふれる巨大な野菜市場の敷地内にひっそりと佇む、絵に描いたような大衆的な餃子専門店だった。
一歩店内に足を踏み入れれば、湯気と油の香りが立ち込め、地元の人々の大きな話し声でいつもお祭りのように賑わっていた。しかし、ここで私は、中国独自の大きな「言葉と文化の壁」にぶつかることになる。
中国で初めて餃子を注文しようとした際、メニューに見慣れない、そして聞きなれない「両(リャン)」という重量の単位が並んでいたのだ。
日本では、餃子を頼むときは「1人前、2人前」あるいは「1皿、2皿」と注文するのが当たり前である。しかし、この「両」という単位は、けっして日本の1人前を意味するものではなかった。中国語もほとんど判らず、この単位が具体的にどれほどの量を指しているのか見当もつかなかった私は、最初はいつも適当にメニューを指さして頼むしかなかった。
言葉が通じない中、お店の側も「まあ、あの日本人のガタイなら、大体これくらいの量は食べるだろう」と経験則で推測してくれたのだろう、毎回絶妙な分量の餃子を運んできてくれた。当時の私は、指さし注文の達人であり、時には隣のテーブルの客が食べている、やたらと美味そうな料理をそのまま指さして「あれをくれ」と身振り手振りで伝えることで、なんとか毎晩の食卓を豊かにしていたのである。

「1両」をめぐる、あるサービス員の親切
何度か店に通ううちに、私もようやく「両(リャン)」という言葉の発音だけは覚えてきた。そこで、この謎に満ちた単位の「正確な量」を、自分の目で一度確かめてみたいという好奇心が湧いてきた。
ある日、私は注文を取りにきた店員に対して、満を持して「1両(イーリャン)だけ」と指を一本立てて注文してみたのである。
すると、注文を聞いた女性の服務員(ウェイトレス)は、目を丸くして驚いたような表情を浮かべた。そして、私の顔をじっと見つめながら、中国語で「本当に、本当に1両だけで良いんですか?」と、心配そうに、かつ不思議そうに何度も繰り返し確認してきた。
言葉は完全には解せなかったが、彼女のジェスチャーからその意図は十分に伝わってきた。しかし、私はどうしても「1両」の正体を知りたかったため、笑顔で首を縦に振り、繰り返し「いいですよ、それで」と押し通した。
この時、熱心に私の注文を確認してくれたのは、いつの間にか私のテーブルの専属のようになっていた、お馴染みの服務員の女の子だった。彼女はなかなかの美人で、言葉の通じない異国人の私に対して、いつもはにかむような可愛らしい仕草で行き届いた接客をしてくれる、好感の持てる店員だった。
しばらくして、彼女が厨房から少し申し訳なさそうな顔をして持ってきた皿を見て、私は思わず噴き出しそうになった。小さなお茶碗のような器の中に、ぽつんと入っていたのは、わずか3個の餃子だったのである。
「なるほど、1両とは、重さの単位で餃子3個のことだったのか!」
長年の謎が解けた瞬間だった。確かに、小さな子供の小腹満たしなら3個(1両)でも良いかもしれないが、ビールを片手にしっかりと夕食を楽しみたい大の男であれば、最低でも3両(9個)は欲しいところだ。一般的な女性であっても、2両(6個)くらいはペロリと平らげるだろう。
あの時、彼女が何度も「本当にそれでいいのか」としつこいくらいに確認してくれたのは、言葉の判らない外国人客が、お腹を空かせたまま店を出るようなことにならないための、彼女なりの優しい配慮であり、温かいおもてなしの心だったのだ。異国の地で触れたその細やかな思いやりが、本当にありがたく、胸に沁みた。私はそれ以降、彼女の顔を見て、自信を持って「3両!」と注文することが我が家の定番のルールとなったのである。
やがて身体が、あの異臭を愛し始める
この居心地の良い餃子屋に通い詰め、安価なビールとともに、彼女が運んでくれる3両の焼き立ての餃子を頬張る日々。そんな温かい日常を中国で重ねていくうちに、私の身体には、ある決定的な変化が訪れることになる。
あれほど「プラスチックの燃え殻」と忌み嫌い、味音痴の食べ物だと罵倒していた「香菜」が、いつの間にか、餃子のタレの中に、そしてスープの中に、なくてはならない最高のアクセントとして、私の味覚にピタリと嵌まるようになっていたのだ。
ビールの油脂を洗い流し、身体の毒素を排出しようと、私の細胞が本能的に香菜の持つ強いデトックス効果や効能を求めていたのだろう。気がつけば、香菜のあの独特の風味は、不快な異臭から「身体を清めてくれる、たまらなく愛おしい香り」へと変貌を遂げていた。
人は味だけで物を食べているのではない。身体が本当に求めているものは、どんなに最初は拒絶したものであっても、やがて極上の美味へと進化する。あの賑やかな市場の餃子屋で、優しい服務員の笑顔とともに学んだ「医食同源」の真理は、今でも私の食卓の根底に、雑穀米やお茶の習慣とともに、深く息づいている。


コメント