異国の地で、自らの母国語を模した響きに出会う瞬間というのは、奇妙な愛おしさと、いくらかの気恥ずかしさを伴うものである。
中国の街角を歩いていると、こちらが日本人であると察した途端、嬉しそうに知っている日本語を並べ立ててくる人々にしばしば遭遇する。「こんにちは」や「ありがとう」といった具合だ。このあたりは、旅の挨拶として極めて平穏な部類に属する。時には、悪気のない笑顔で「バカ~」などと呼びかけられることもあるが、それによって場が和み、友好的な関係が築けるのであれば、大人の分別の範疇として苦笑いで済ませるのが常であった。
何度か買い物を重ねるうちに、私の発する言葉の微細なニュアンスから、彼らは鋭く国籍を察知するようになる。
「日本人かい?」
「そうです」
「ありがとう、こんにちは、こんばんは! あっはっは!」
馴染みの商店の親父あたりと、そんな他愛のない会話を交わすのは日常茶飯事だった。しかし、彼らの調子の良いお喋りにじっくりと耳を傾けてみると、どうにも奇妙な音節が混ざり込んでいることに気づく。

「ありがとう! こんにちは! みしみし!」
最初のうちは、大陸の喧騒の中に聞き流していた。「また何か妙なことを言っているな」と、一笑に付していたのだ。だが、それは一度や二度のことではなかった。
「こんにちは! ばかぁ! みしみし!」
適当に聞き流そうとしても、その四文字は執拗に私の鼓膜を叩く。「みしみし」……一体、それは何なのだ。
ある日、煙草の売店でいつものようにマイルドセブンを購入したときだった。店のおやじが、満面の笑みを浮かべて私に語りかけてきた。銘柄から日本人だと確信したのだろう。
「ありがと! 味の素! みしみし!」
ここでもやはり「みしみし」が現れた。私はとうとう辛抱たまらなくなり、そのおやじに尋ねてみることにした。
「日本人は、その『みしみし』という言葉をよく使っているのかい?」
「使っているとも! よく大声で言っているよ」
おやじは愉快そうに破顔した。
みしみし、ねえ……。私の脳裏には、古い木造家屋の床が重みに耐えかねて軋む「床がみしみしと鳴る」というオノマトペしか浮かんでこなかった。しかし、中国の住居の多くは煉瓦やコンクリート造りであり、木造家屋など滅多にない。そもそも、日本人がそんな限定的な擬音を異国の地で連発するはずがなかった。
私はさらに踏み込んで、その言葉が使われる「舞台」について訊ねてみた。
「日本人は一体、どこでその『みしみし』を言っているんだい?」
「決まっているじゃないか、食堂だよ。しかも、みんなして大きな声でな……」
その刹那、私の脳内で全ての点と線が鮮やかにつながった。
なるほど、そうか。「みしみし」ではない。彼らが耳にしていたのは、日本人の男たちが放つ「めし(飯)、めし!」という、あの野卑で威勢の良い催促の声だったのだ。
確かに言っている。私自身、同胞たちと共に食卓を囲む際、大声を張り上げて「めし!」と求めていた記憶が、苦笑いと共に蘇ってきた。それにしても、中国の人々の耳というものは、実に実直に他国の言葉を拾い上げているものである。

彼らが「めし」を「みしみし」と表現するのには、言語学的な必然があった。日本語の「え」の母音は、中国語(普通話)には存在しない。中国語の「e」という発音は、喉の奥で息をすぼめるような、日本語の「う」に近い音になってしまう。そのため、彼らが聞こえた音を自らの発音体系に当てはめようとすると、「め(me)」の音は自ずと「み(mi)」へと変換されてしまうのだ。
音の模倣、という意味では、我々日本人が中国人の真似をするときに使う「~~アルよ」という奇妙な語尾も、酷似した構造を持っている。これは中国語、とりわけ北方言語に見られる「R化(アール化)」と呼ばれる現象が、日本人の耳にそう聞こえさせた名残である。R化とは、漢字の発音や単語の末尾が「n」などで終わる際、舌を巻き上げる「R」の音が追従し、結果として我々の耳に「~~アル」と響く現象を指す。
しかし、このR化はすべての中国語圏に共通するものではない。たとえば、台湾の華語(中国語)には、この激しいR化が存在しない。それゆえ、実際に台湾人の話す中国語を聞くと、文法的な意味はそこそこ理解できるものの、音の起伏が平坦で、私にとってはかえって聞き取りにくく感じられることがある。

かつて、ベトナムのホーチミンに滞在していた頃、軍手を製造する小さな町工場を訪れたことがあった。従業員は十人ほどの慎ましい規模で、カンボジアのプノンペンにも拠点を持つ会社だった。
その事務所の片隅で、社長と奥さんが二人で会計の机に向かっていた。社長は台湾人であり、奥さんは大陸(内陸部)の出身だという。いざ打ち合わせを始めようとしたのだが、やはり社長の放つ台湾風の中国語が、私の耳にはどうしても馴染まない。困り果てた私は、結局、社長の言葉を一度奥さんに「大陸の言葉」へと翻訳してもらい、それを私が聞き取るという、何とも奇妙な三角関係の通訳劇を演じる羽目になった。同じ中国語を扱いながら、夫婦の間を言葉が還流する光景は、どこか不思議で滑稽ですらあった。
R化というアクセントの有無が、これほどまでに聴覚的な親和性を左右するものなのか。私にとっては、あのR化が激しく激突する、北京の街頭の言葉の方が圧倒的に肌に合っていた。今思えば、かつて北京で乗ったタクシーの運転手が、煙草をふかしながら吐き捨てるように喋っていたあの薄汚くも小気味よい発音こそが、たまらなく懐かしく、愛おしい。
言葉の歪みや誤読の中にこそ、文化が地擦れを起こしながら混ざり合う、生々しい人間味の記録が残されているのである。

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