冷たい風が頬を刺す季節になると、ふと思い出す光景があります。それは、かつて私が暮らしていた異国の街の匂いや、そこに生きる人々の少し不器用な温かさ。
40代という年齢を迎えた今、これまでの人生を振り返ってみると、私の20代から30代の大半は海外での暮らしの中にありました。中国とベトナム。滞在年数を合わせると、およそ18年という長い月日になります。今思えば、激動の時代を異国で駆け抜けたものだと、我ながら少し感慨深くなったりもします。

特に印象深いのが、北京で暮らしていた頃のことです。
北京の冬の厳しさは、日本の比ではありません。地理的に言えば、大体日本の青森県と同じくらいの緯度に位置するそうですが、大陸性の気候も手伝って、その寒さはまさに「極寒」。本格的な冬を迎えると、最高気温がマイナス5度、一番冷え込む時期にはマイナス17度まで下がります。青森には滞在したことがない私ですが、北京の冬を経験してからは、頭の中にいつも凍てつく津軽海峡の景色が浮かぶほど、寒さが身に染みたのを覚えています。
そんな過酷な冬を前にして、当時の北京には少し不思議な「習慣」がありました。
現地の人々は、体を鍛えるため、そして寒さに体を慣らすために、「11月15日頃までは厚手のジャケットを着てはいけない」という暗黙のルールを持っていたのです。中国人の友人からその話を聞いた時は、さすがに驚きました。でも、郷に入っては郷に従え、です。
ちょうど11月、私の誕生月での出来事でした。
親しくしていた中国人のご家族が私の誕生日を祝ってくださることになり、私はウキウキしながら出かける準備をしました。とはいえ、まだ「15日」の前です。現地のルールを守るため、厚手のジャケットを着るわけにはいきません。仕方なく、フード付きの薄いパーカーを羽織り、文字通り身を震わせながらバス停へと急いでいました。

大学の構内から校門に向かって、凍えながら歩いていたその時です。向こうから、見るからに暖かそうなダウンのハーフコートを綺麗に纏った女性が歩いてくるのが見えました。そのあまりの温もり感に、私は寒さのあまり、すれ違う寸前までそのコートに見とれてしまっていたのです。
「あら、らむ銀さん。こんにちは、寒いですね」
声をかけられてハッとしました。そこにいたのは、同級生の新橋さん(仮名)でした。すぐ後ろからは、いつもニコニコとしていて穏やかな、貫禄のある体型の旦那様が近づいてきて、私に軽く会釈をしてくださいました。お二人の仲睦まじい姿に心が温まる一方で、私の頭の中に、ある小さなアラートが鳴り響いたのです。
(新橋さん……ちょっと、目立ちすぎかも……)
当時、現地では日本人を狙った軽犯罪が流行っていました。中国の「季節の変わり目にはまだ冬服を着ない」という仕来りを知らずに、いかにも暖かそうなジャケットを着て歩くということは、周囲に対して「私は現地の事情を知らない日本人です。どうぞ狙ってください」と宣伝しているようなものだったのです。中国は基本的に治安が良い国ですが、やはり海外。決して油断をしてはいけません。

実は、私自身にも苦い経験があります。
まだ北京の習慣を知らなかった頃、あまりの寒さに耐えかねて、10月の終わり頃にダウンジャケットを着て街に出たことがありました。するとどうでしょう。歩道の両脇でものを売っていた年配の方々が、まるで打ち合わせでもしたかのように、一斉にこちらを振り向いたのです。「なんじゃ、あの格好は?」と言わんばかりの唖然とした視線。指を差されて笑われるわけではないのですが、ただ無言でじっと見つめられる中を歩くのは、かなりの勇気が必要でした。
この経験から私は学びました。海外、特に当時の中国では「目立つ服は避けた方がいい」ということを。
しかし、この「目立つ」という感覚が、私たち日本人にはなかなか難しいのです。自分では十分に地味で、現地に馴染んでいると思っていても、現地の方から見れば突出して派手に見えることが多々あります。こればかりは、文化や感覚の違いですから、現地の人に直接聞いてみるのが一番の解決策です。
「私のこの服、派手ですか?」
そんな少し妙な質問かもしれませんが、現地の方に確認してみる心の余裕が、異国で身を守る術になります。

ところで、海外にいるとつくづく感じることがあります。それは、アジアの国々において「日本人女性」がいかに好意的に受け止められているか、ということです。
清潔感があり、礼儀正しい。そんな佇まいが、現地ではとてももてはやされます。実際に他の国の女性たちと比べてみても、どこか独特の慎ましさや品格があるのは事実かもしれません。
ただ、現実問題として、中国や東南アジアのビジネスの現場や生活圏において、日本人女性を見かける機会はそれほど多くありません。私が滞在した18年間を振り返っても、観光地でたまにすれ違う程度で、片手で数えられるほどしか記憶にありません。それくらい、彼女たちは希少な存在なのです。
だからこそ、日本人女性が現地で行動すると、良くも悪くも目立ちます。特に、彼女たちは集団で行動する傾向があるため、なおさら周囲の目を引きます。それが北京の冬の街であれば、現地の「仕来り」から浮いてしまうことも相まって、さらに際立ってしまうのです。
清楚で、美しく、どこか異国情緒を漂わせる日本人女性。
その魅力は素晴らしいものですが、異国の地で心地よく、そして安全に暮らしていくためには、時にはその「清楚さ」を少し隠し、現地のたくましさに同化する知恵も必要なのかもしれません。
凍える北京の風の中で出会った、新橋さんの暖かそうなコート。
あの時感じた小さな違和感は、今でも私に、異国で生きるための大切なバランス感覚を思い出させてくれるのです。


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