海外の現地工場で立ち上げたばかりのドタバタ期、それまでの上司と同居するという窮屈な生活から脱却するため、私は思い切って引っ越しを決意した。駐在員という身分上、多少の不自由は仕方がないと諦めかけていたが、プライベートの空間くらいは一人でゆったりと確保したい。そう思って始めた物件探しだったが、これが予想を遥かに超える難航の始まりだった。
現地事情に疎い私を助けてくれようと、ベトナム人の同僚が部屋探しを買って出てくれた。仕事の態度は大真面目で悪くなかったものの、彼にとっても住宅の仲介や交渉は門外漢だったのだろう。いま振り返ってみれば「単にやる気がなかっただけでは?」と思わなくもないが、こちらの要求が彼の処理能力を超えていたのだと思う。提案される物件はどれもこれも、極端すぎるクセの強さを持っていた。
「敷金礼金が合わせて6か月分」という日本のバブル期のような強気な条件もあれば、なぜか元店舗の居抜き物件で「天井に煌びやかなミラーボールが鎮座している部屋」なんていう奇天烈なものまであった。ミラーボールの部屋は「これはこれで面白いかもしれない」と一瞬心が揺れたが、大きな吹き抜け構造になっており、年中蒸し暑いベトナムで冷房をかけ続ければ電気代が恐ろしいことになるのは目に見えていた。結局、提示されるのは悪い要素が突飛すぎる物件ばかりで、途方に暮れてしまったのだった。
万策尽きたかと思われた頃、救いの手が差し伸べられた。知り合いの日本人が帰国するため、彼が住んでいた部屋をそのまま譲り受けることになったのだ。間取りは2LDKで、日本の公団団地を彷彿とさせる親しみやすい作り。そして部屋を引き継ぐために対面したその日本人男性は、なんと以前、私が勤める工場の立ち上げに尽力してくれた施工業者の関係者だった。海外の狭い日本人コミュニティならではの偶然の縁に感謝しつつ、私はようやく安住の地を手に入れることができたのである。
しかし、無事に決まったそのベトナムの団地にも、日本とは大きく異なるユニークなルールが存在していた。それは「エレベーターに乗るたびに料金を払う」というシステムだ。
記憶を辿ってみると、都度払いの場合は1回あたり2,000ドン(日本円で10円程度)ほどだった。1階のエレベーター脇には専用の受付カウンターのような場所があり、そこにお姉さんが座っていて都度料金を徴収するのである。一方で、住民向けには定額の月額プランも用意されていた。こちらは一世帯あたり確か25,000ドン(約125円)ほどで、毎月定額を納めれば乗り放題となる仕組みだ。
驚くべきは、この1階に鎮座する「エレベーターの門番」であるお姉さんの超人的な記憶力だ。そのアパートには200から300世帯、人数にすれば千人弱の住民が暮らしていたはずである。それにもかかわらず、彼女は誰が今月の固定料金を支払い済みで、誰が未払いなのかを完璧に頭の中に叩き込んでいた。「あの人は3階の〇〇さんだから顔パス」「あの人は未払いだから1回2,000ドン徴収」といった具合に、次々と訪れる住民を瞬時に見分けて見事に管理していたのだ。ノートを細かくめくる素振りも見せず、瞬時に判断するその驚異的な記憶力には、毎日のように感心させられたものだ。

確かに、エレベーターを一切使わない1階の住民からすれば「使ってもいないエレベーターの維持管理費を払わされるのは不公平だ」という言い分は理にかなっている。だからこそ、ベトナムのこの従量課金システムは合理的とも言える。ちなみに日本の場合、エレベーターの電気代やメンテナンス費用は全体の「共益費・管理費」として一括で請求されるため、階数に関わらず一律負担が基本だ。過去には日本でも「1階の住民がエレベーター費用を払うのは不当だ」として裁判が起こされた事例があったそうだが、結局は「共益部分の維持に必要な経費」として訴えが却下されたらしい。
そんな風に、わざわざ専任の門番を配置してまで料金を徴収していたエレベーターだったが、肝心の機械の性能や管理状態は実に怪しいものだった。とにかく、頻繁によく故障した。
外側のドアは閉まったまま内側のドアだけがすーっと開いたり、乗っている最中に突然停止して何分間も閉じ込められたりすることは日常茶飯事だった。しかし、私がこれまでの人生で最も命の危険を感じ、恐怖に震えたのは「到着してドアが開いた瞬間、胸の高さに床があったとき」である。
エレベーターの箱が途中の妙な位置で止まってしまったのだ。目の前には壁と、胸の高さに見える上階のフロア。どう対処していいのか分からず、私はただその場で立ちすくむしかなかった。胸の高さにある床へよじ登って脱出しようかとも頭をよぎったが、万が一、よじ登っている最中にエレベーターが急に動き出したら、体が挟まれて胴体切断という悲惨な事故になりかねない。あまりの恐怖に、私は救援が来るか正常に動き出すのをただじっと待つしかなかった。
昨今、SNSなどを開くと海外のエレベーター事故や閉じ込め事故のショッキングな映像が流れてくることがある。機械の整備が甘い環境では、一歩間違えれば本当に命を落とす危険性と隣り合わせだ。ベトナムに限らず、海外でエレベーターを利用する際は、日本と同じ感覚で過信せず、常に違和感がないか気を配るべきだと今でも強く心に刻んでいる。

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