日本の食品には、当たり前のように「賞味期限」が記載されている。しかし私は、期限から何か月経とうが、はたまた何年経とうが、食べてお腹が痛くならなければ問題ないと考えている。むしろ、時間が経った食べ物は適度に熟成され、深みが増して美味しくなるものさえある。さすがに炊いたご飯を一週間も放置するのは怖いが、2・3日経って少し水分が抜けたご飯の方が、炊き立てよりもかえって美味しく感じられることがある。これも一種の熟成による効果なのだろうか。

昨今、食の安全に対する規制は厳しくなる一方だが、私はあえてこの風潮に反対したい。傷んだものを食べたところで、せいぜいお腹が痛くなるくらいではないか。もちろん、重篤な食中毒で命を落とすケースもあるため、「運が悪かった」の一言で片付けるのは、実際に被害に遭われた方々に対して不謹慎で無責任な物言いかもしれない。しかし、世の中のあらゆるリスクは、どんなに国が規制を強化し、個人が防ぐ努力を徹底したとしても、完全に「ゼロ」にすることは不可能なのだ。「厳格なルールで縛るよりも、個人の教育と経験に委ねるべきだ」という意見もある。ごく少数の事故を恐れて社会全体を過剰に規制しても、悲劇的な確率を完全に無くすことはできないのが現実である。

ここで、かつてのベトナムでの経験を振り返ってみたい。今から10年ほど前の話だ(現在では低温物流ネットワークが発達し、劇的に改善されたと聞いている)。当時、現地のスーパーで卵を1パック買うと、その中に1つは当たり前のように腐った卵が混ざっていた。運が悪いと、2つも腐った卵を掴まされることすらあった。そこで私は自衛策として、店内で卵を買う際に、パックを下から光に翳(かざ)して中身が透ける様子を確認し、腐った卵を判別する技を身に付けた。何度も痛い目を見たからこそ、自ら学習した結果である。もしこの確認を怠れば、文字通りドロドロに傷んだ「腐乱卵(ふらんらん)」を引き当てることになる。

私が幼い頃の日本も、食べ物の安全性はこうして体当たりで学習していくものだった。その名残だろうか、私は今でも牛乳を飲む前に、舌を鳴らすようにして「ちゃちゃっ」と一口だけ味見をする癖がついている。これは過去に腐った牛乳を飲んで痛い目を見たからではなく、幼少期に培われた野生的な自己防衛の本能がそうさせているのだ。
翻って現代の日本社会を見ると、こうした「実体験を通じて自己防衛する機会」が徹底的に奪われている。その元凶とも言える悪魔のような規則こそが、「賞味期限」という一律の表示システムだ。

実際のところ、賞味期限を過ぎたからといって、食品はすぐに腐りもしなければ、味も急激には落ちない。以前、私は賞味期限を2か月以上も過ぎた納豆を食べたことがある。水分が抜けて少し乾燥し、風味も多少変化していたが、十分に“美味しく”食べることができた。
ここで皆さんに問いかけたい。2か月も賞味期限が過ぎた、しかし十分に食べられる納豆を、数字だけを理由に捨てるのだろうか。乾燥気味になり、多少味が変わったからといって、体に害のない納豆をゴミ箱に放り込むのだろうか。
天の神様は、私たちのこうした身勝手な振る舞いをしっかりと見ているはずだ。まだ食べられるものを安易に捨てる行為は、作物を育てる農家の努力や、命がけで海に出る漁師の苦労を無に帰し、そのプライドを踏みにじる無慈悲な裏切りにほかならない。
かつて世間を騒がせた「赤福」や「船場吉兆」による賞味期限の偽装や売れ残り商品の再利用問題。世間はこぞってこれらを悪と叩いたが、見方を変えれば、限られた資源を無駄にしないための「究極の企業努力」であり、むしろ環境配慮の観点から褒めたたえられてもよい側面があったのではないだろうか。
国や企業が勝手に決めた記号のようなルールに踊らされ、まだ十分に食べられる食品を大量に廃棄し続ける国、日本。飽食に溺れ、食べ物のありがたみを忘れた現代の日本人に、神様が「飢え」という名の冷酷な鉄槌を下さないことを、私は願うばかりである。


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