魚がくいてぇ~

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 ウチのかみさんは、とある巨大な倉庫で働いている。日々の業務は、商品の梱包やピッキングといった、立ち通しの地道な軽作業だ。フォークリフトの免許さえ取得すれば、手っ取り早く時給が上がるのだから挑戦してみればいいのに、と私は何度も勧めているのだが、彼女は「せっかくの休みの日はゆっくり休みたいの」などとぬかして、一向に首を縦に振ろうとしない。それ以上、私が口を挟むと家庭の空気が険しくなるだけなので、いつも言葉を飲み込んでいる。
 パートタイムの仕事とはいえ、彼女の帰宅は夜遅い。時には時計の針が23時を回ることもあり、平均しても22時を少し過ぎた頃にようやく玄関の鍵が開く。


こうなると、必然的に私が我が家の厨房に立ち、夕食の支度をしなければならなくなる。私が仕事を終えて帰社し、スーパーでの買い出しを大急ぎで済ませて家に辿り着く頃には、いつも20時を少し前を回っている。
 そこからは時間との戦いだ。炊飯器のスイッチを押し、米が炊き上がるまでの限られた時間の中で、手際よく料理を仕上げていく。平日の夜に作れるものといえば、どうしても火の通りが早い炒め物が主役になりがちだ。冷蔵庫の余り野菜と肉をフライパンで煽るとなれば、味付けは自ずとオイスターソースや鶏ガラを使った中華風味に傾いていく。
 しかし、主菜に「魚」を選んだ日は、台所の景色が一変する。味付けは完全に和風へと舵を切ることになるのだ。
 こうしてフライパンを振りながらふと思うのだが、私たち日本人が魚という尊い食材を真に生かして料理しようとする時、それは日本料理の文脈でなければ、どうしても収まりがつかないのではないだろうか。
もちろん、魚を使った中華料理も素晴らしいものはたくさんある。しかし、あの大火力を生かした中華の技法は、往々にしてふんだんに油を使用する。油の海に魚を潜らせてしまえば、その魚が本来持っている繊細な固有の旨味や、淡い磯の香りが、油の濃厚さにすべて掻き消されてしまうのではないかという懸念が、どうしても頭をもたげるのだ。


 大袈裟かもしれないが、日本人は伝統的に「油で魚を焼く(あるいは揚げる)」ということに対して、遺伝子レベルで奇妙な抵抗感を抱いているのではないか――私は密かにそう信じたい。
 日本人にとって、魚を最も正しく、そして崇高に味わう方法とは、直火に他ならない。
 サンマであれ、イワシであれ、理想を言えば網の下で真っ赤に 熾(おこ)った炭火の熱。その遠赤外線の不器用な温もりに委ね、時間をかけてじっくりと、皮目が弾けるまで炙っていく。余計な調味料など一切いらない。ただ、焼く前に指先で軽く塩を振る。それだけだ。それ以上でもなければ、それ以下でもない。ただそれだけのシンプルな儀式が、魚の持つ生命の旨味を極限まで引き出す。
 パチパチとフライパンの中で音を立てる、今夜の中華風の肉野菜炒めを眺めながら、私の心はどこか物足りなさを訴えている。
香ばしい煙を上げ、大根おろしをたっぷりと添えられた、あの引き締まった焼き魚の姿が、脳裏をよぎって離れない。
 ああ、無性に、どうしようもなく、本物の魚が食いたい。
 そんな切ない渇望を、私は熱い白米の湯気の中に、そっと隠すようにして胃袋へ収めるのだった。

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