私が初めてベトナムの地を踏んだのは、2008年のことだった。それまでは中国で働いていたが、リーマンショックの余波がじわじわと押し寄せ、中国経済の足元が揺らぎ始めていた。バブルの宴が終わり、景気は冷え込み、街の喧騒もどこか空虚に響いていた。私自身もその波に飲まれ、職を転々とする日々を送っていた。まるで漂流する木の葉のように、どこに根を下ろすこともできず、ただ流されるばかりだった。
仕事はなかなか決まらず、ようやく見つけたと思えば、ろくでもない会社ばかり。入社しても数ヶ月で辞めるか、あるいは向こうから「もう来なくていい」と言われる始末。履歴書の職歴欄は、まるで傷だらけの戦歴のように埋まっていった。失業率そのものは当時それほど高くなかったはずだが、私にとっては数字など関係なかった。現実は冷たく、求人票の文字はどれも遠い世界の話のように思えた。
「自分には何の取り柄もないのか」「社会に必要とされていないのか」そんな思いが胸を締めつけ、情けなさと焦燥感が心を支配していた。朝が来るのが怖く、夜が終わるのが憂鬱だった。生きている実感は薄れ、ただ「働かねば」という義務感だけが、かろうじて私を動かしていた。
そんな中、縁あってベトナムに渡ることになった。2008年当時のベトナムは、今とは比べものにならないほど閑散としていた。高層ビルなどほとんどなく、唯一目立っていたのは「Manor」という名のマンション。白い壁に青い屋根が特徴で、どこか異国の城のような佇まいだった。後に私はそこに住むことになるのだが、当初は日本で言えば公団住宅のような質素なアパートに、上司と二人で同居していた。
これがまた、地獄のような日々だった。駐在員として、同僚と寝食を共にするというのは、想像以上に精神をすり減らす。仕事が終わっても上下関係は続き、気を抜く暇がない。プライベートなど存在せず、息をするのも気を遣う。上司とは決して仲が良かったわけではない。むしろ、家では互いに無関心を装っていた。だがその無関心さえ、時に重苦しく、息苦しかった。
上司はテレビが好きで、帰宅するとリモコンを独占した。だが、ベトナム語がわからないため、なぜかアニメ番組ばかりを見ていた。60歳を過ぎた男が、無表情でアニメを眺める姿は、どこかこの世の終わりのような光景だった。笑うに笑えず、泣くに泣けず、私はただその横で、無言のまま時間が過ぎるのを待っていた。

そして、会社もまた、ブラック企業の典型だった。労働時間は長く、待遇は悪く、理不尽な指示が飛び交う。上司もやがて耐えきれず、会社を去っていった。残された私は、また一人、異国の地で孤独と向き合うことになった。
振り返れば、あの頃の私は、何かを掴もうとしても指の隙間からこぼれ落ちるような、そんな日々を生きていた。希望は遠く、現実は重く、未来は霞んでいた。だが、それでも私は歩き続けた。いや、歩かざるを得なかったのだ。立ち止まれば、すべてが終わってしまう気がしたから。



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